-増田本関連- 箱男氏のブログの再録2007/10/10 00:21

以下は旧箱男氏のブログから箱男氏の了承を得ての再録である。

いわゆる「増田本論争」において話題のひとつであったフレデリック・ワーサムとコミックスコードについて重要な事柄が書かれているので再録させていただいた。

山本弘氏による増田本批判に対しても重要な意味を持つと考える。

 某所で地雷を踏んでかなり困惑したのだが、それは単におかしい話だからべつにいい。

 そこでかなり絶望的な気分にさせられるものを目撃したので、そのことに関連した事柄について私的にメモしておく。

Amy Nyberg『SEAL OF APPROVAL: the history of COMICS CODE』とコミックスコードの影響

 以下に引くのは『SEAL OF APPROVAL: the history of COMICS CODE』のイントロダクションからの引用である。本文ではなく本の最初に収録されている「序文」に書いてあることだ。

 コミックファンダムの歴史家たちのあいだには根強い信仰として「コミックスコードのためにコミック業界はほとんど壊滅状態に陥った」というものがある。そして、この見方はアカデミックな研究者たちのあいだでも受け入れられている。だが、こうした見方は他の、より重要な影響力の存在を隠蔽してしまう。コード策定後の数年間、コミックス業界の売り上げは上昇していた、コードの施行はこの業界の直面した不況に対しては部分的な説明にしかなりえない。まず1950 年代半ばにコミックス業界が直面したのは流通業者の問題だった。彼らにとっての「問題」は「議論の余地のある」コミックスを扱うことへの流通業者からの抵抗より、むしろ当時過半数のコミックブックの流通をおこなっていた「アメリカン・ニュース・カンパニー(American News Company)」が政府の独占禁止法施行を受けて雑誌流通から手を引く決断をしたことのほうだった。アメリカン・ニュース・カンパニーの消滅は多くの出版社から彼らの本を市場へ流通させる手段を奪ってしまった。第二に多くの出版社は単にコミックブックの売り上げ低下からくるごく一般的な経済的苦境に直面してコミックビジネスから離脱している。このセールスの低下は二つの要因によるものだ。その要因の第一はコミックブックへのネガティブなイメージが喧伝されたことだが、第二の要因は子供の余暇時間を巡るテレビとの競争が激化していったことにある。ジェームス・ボウマン(James Baughman)は、その戦後アメリカ社会における既存のマスメディアが受けたテレビ登場の影響分析において、テレビジョンの登場が他のマスメディアを周縁化し、ユーザーのテレビを見る時間「以外」の時間のシェアを巡って競争していくように強要したのだ、と示唆している。だが、ボウマンは特にコミックブックに焦点を当てている訳ではない、彼の分析からはコミックブックがそのステイタスを回復し損ねた理由は抜けており、マスメディアとしてのより全般的な傾向と結びつけられている程度だ。その点でコミックブック出版社の緊急行動は彼ら自身の市場での在り方を立証するかのように、新聞社、出版社、映画製作会社、ラジオネットワークの同じような事態の際の行動を繰り返しただけのものだった。

 だが、ウィリアム・ゲインズ(William Gaines)のE.C.コミックスのような会社がこの新基準の犠牲になったことは確かである。実際ほとんどのファン歴史家はE.C.コミックスの消滅をコードの影響の例としてあげる。しかし、ゲインズに起こったことは典型例というより、むしろ例外なのではないか。多くの出版社がそれでも新タイトルを出し続け、ようやく10年後にコミックスの「シルバーエイジ」をもたらすスーパーヒーローの再登場によってコミック業界はそれまでの数年間に失った領地を少しは回復することになる。ゲインズのコミックスはこの時期から新しい世代のファンに対して再版されるようになり、今日ではE.C.コミックスはそのアートワークとストーリーテリングの両面で特別な尊敬を勝ち得ている。コミックブックの「聖典」があるとすれば、そのリストの筆頭に上がるのはE.C.コミックスだろう。この1950年代のE.C.コミックスに対する敬意の存在が、ゲインズの会社の消滅とこの時期の業界全体の破滅が同一視されることを理解する助けになってくれる。コードがこのメディアのクリエイティブなアウトプットに与えた影響とコミックブック出版自体に与えた影響とを切り離して考えることが重要だ。「コミックスコードがコミックブックのクリエイティブな発展に悪影響をもたらした」とは論じられても、「コミックスコードがコミックブック出版にほとんど壊滅的な打撃を与えた」という意見を支持するのは難しい。

(「Introduction」、Amy Kiste Nyberg、『SEAL OF APPROVAL: the history of COMICS CODE』、University Press of Mississippi刊、X~Xii)

 序文にはっきりとこのような作者の考えが明記されている本を引き合いに出して、それがさも「コミックスコードの影響でアメリカのコミックス市場は50年代に壊滅的な打撃を受けた」ことの根拠になるかのように主張することができるのは、「私の考え」ではそのように主張する人物がこの本を実際には読んでいない、もしくはどうせ誰も読まないだろうと考えて作者の意図を無視してはったりをかましている場合のみである。

 またコードの導入とフレデリック・ワーサムの関係についてもナイバーグはこれも「序文」で以下のように述べている。

 この子供文化への汚染に対する警鐘は継続的な公共的反響を呼び起こすには至らなかった。コミックブックの「問題」が公的な議論の柤上に上るのは、それらの子供文化をコントロールしようとする試みのあと、伝統的に公衆道徳の基準を形成してきた教会と市民グループが共同で大手メディアの注意を喚起し得るようになってからのことだ。アンチコミックスキャンペーンが成功した大きな要素のひとつはコミックブックを読むことを少年非行の問題と結びつけた点にある、この問題は社会による子供のコントロールが失われたことを改めて提起するものだった。戦後のアンチコミックスキャンペーンに先行するこうした動きを理解したとき、議論の力点が教育と道徳の問題から法と秩序の問題へと遷移した理由がはじめてクリアーになる。「社会による子供の管理」という原理主義的な信念に基づいて考えた場合、それらは同じものでなければならないからだ。この議論の遷移に際して重要な推進力となったのが、心理学者フレドリック・ワーサム(Fredric Wertham)のような専門家による警告だった。特にワーサムのアンチコミックス・クルセイドはメディアの関心を集め、コミックブックを子供を害するものだと考える人々に理論的な枠組みを与えた点で重要な役割を果たした。

 本書において、私はコミックスへの攻撃がどのようにおこなわれたかを調査した。ローカルレベルでは市民、宗教団体がコミックブックに自分たちの基準を押し付け、そのコミュニティーの小売業者に圧力をかけていた。これらのグループには法的な拘束力はなかったが、自分たちがふさわしくないと考えるコミックブックを小売店の棚から排除するために不買運動を展開し、経済的に脅迫した。こうした「良識的な」運動は「アメリカ・カソリック教会良書普及委員会(Cathoric Church's National Office of Decent Literature)」や「シンシナティコミックス評価委員会(CincinatiCommittee for the Evaluation of Comics)」といった団体が発表し、「ペアレンツマガジン(Parent's Magazine)」に掲載された評価リストによって支えられていた。こうした運動は州の政治家たちの注意を引きつけ、やがて国家レベルにまで拡大する。第二次世界大戦後の数年、いくつかの州でこの問題を研究し、好ましくないコミックブックを抑制することを狙いとした法律制定推進するための立法検討委員会が設立されている。国家レベルでは、上院少年非行問題調査委員会にコミックブック問題の調査が持ち込まれ、非行問題とマスメディアとの因果関係の研究が着手された。

 この上院での公聴会の重要参考人であり、アンチコミックス運動のリーダーだったのがワーサムである。彼はコミックブックは有害であり、16歳以下の子供へのコミックブック販売を規制すべきであるという立場をとっていた。しかし、ワーサムの主張は彼が主張したとしてしばしば非難される意見、「コミックブックを読む行為と少年非行の間に直接的な因果関係が存在する」のような単純なものではなく、はるかに複雑なものである。彼の信ずるところによれば、少年非行の問題は社会全体が「暴力崇拝」に陥っている事実に起因するのであり、コミックブックの存在はその表面化のひとつに過ぎない。彼は有害なコミックブックの排斥が少年非行の直接的な解決につながらないことを認識していたが、いっぽうでまたこうした動きが社会を改善するための第一歩になるとも信じていた。

 これまで多くのメディア論研究者は、ワーサムの活動を「メディア現象に対する初期の垢抜けない社会学的研究の一例」であるとしてその価値を軽視してきた。また、現代の社会学者は彼の科学的方法論の欠如と結論を導きだすにあたってのデータ提示の不備を批判してもいる。私はこうしたワーサムの「道を踏み誤ったメディア論の先駆者」というイメージこそ誤ったものだと主張したい。実際にワーサムはメディア現象の社会学的研究の出現を攻撃し、自らの研究は「マスメディアの多元的学問研究(multidisciplinary study of mass media)」と呼んでいる。彼は自分のアプローチは「臨床医療的な方法論」によるものだと信じていた。彼は詳細な症例記録と看護、予後治療、そういう方法こそが長期的なメディア研究の唯一の正しい方法だと考えていたのである。

 ワーサムの努力にもかかわらず、上院小委員会はコミックブック問題に対し法的な「治療計画」を策定せず、そのかわり業界自身が警察の役割を演ずるよう求めた。1954年10月のコミックスコード策定は多くの検閲を求める団体を安堵させ、業界側の政府による規制に対する恐れをも沈静させた。このときコミックブック業界が自主規制コードのモデルとしたのが他のマスメディアで既に採択されている同種のコード類だった。映画に対する多くの批判がコミックブックに対してほとんど同語反復的に繰り返されていた。コミック出版社にとって映画業界はあらかじめ用意された同型車のようなものだった。このためコミックスコードは1930年代に制定されたフィルムプロダクションコードの焼き直し以外の何ものでもなくなっている。コミックスコードは「クライム」と「ホラー」に関する規定に多くの紙幅を費やしている。このふたつのトピックスは特に大衆の怒りを出版社の頭上に振り向けたものだ。コードはクライムコミックスに関しては厳密なガイドラインに従ったものであれば新作の出版を許しているが、ホラーコミックスの出版は禁じている。しかし出版社は非行よりその道徳面に対して不満を漏らすグループからの批判の声にも応え、「言葉」、「コスチューム」、「家庭描写」などの項目をフィルムプロダクションコードの同種の項目をお手本として追加している。

(「Introduction」、Amy Kiste Nyberg、『SEAL OF APPROVAL: the history of COMICS CODE』、University Press of Mississippi刊、Viii~X)

 たしかにワーサムはアンチコミックスキャンペーンのリーダーだったわけだが、ここでのナイバーグの記述が示唆するのは、彼のおこなったキャンペーンはあくまでも全米各地で自然発生的に起きていた「子供文化」への抑圧を求める動きを結果的に代表することになった、という見方であり、この「子供文化をコントロールする動き」がどのように生じていったかがこの本の最初の2章では詳しく検討されている。

 より重要なのはこの記述からはナイバーグがこの本のワーサムに関する論述で意図したものは彼の「研究者としての業績の再評価」だということがあきらかにわかる点だ。この点は『Pulp Demons』(Fairleigh Dickinson University Press刊)所収の論文「The Sad Case of the Unhappy Humanist」(Martin Barker)や最近刊行されたワーサムの評伝『FREDERIC WERTHAM AND THE CRITIQUE OF MASS CULTURE』(Bart Beaty、University Press of Mississippi刊)などの一種のワーサム再評価の動きにおいても共有されているものだろう。

 中でもナイバーグの研究を批判的に継承した『FREDERIC WERTHAM AND THE CRITIQUE OF MASS CULTURE』では晩年のワーサムがファンカルチャーに対して擁護的な立場に立っており『the Comics Journal』誌のゲイリー・グロスをはじめ多くのコミックスファンたちからのインタビューの求めにむしろ積極的に応じていた事実が紹介されていて、読んでいるとごく最近までアメリカのコミックスファンダムにおいてワーサムを「単なるキチガイ博士」、「コミックスコードの元凶」としてこと足れリとしてきたのは「そのほうが彼らにとって都合がよかったからではないか」というあらぬ疑いすらわいてくる始末だ。

 したがって、こうした記述を「序文」においてすでにおこなっているこの本を「ワーサムとその著作がコミックスコードの直接的な原因だ」という主張の根拠になりうるかのように発言できるのはこれも「私の考え」では実際には本を読んでいないか、作者の意図を無視して恣意的にはったりとして書名を利用している場合のみである。

 だいたいワーサムが証言した公聴会そのものがどういうものだったかはネット上にもその中間報告書が存在し、『THE WORLD ENCYCLOPEDIA OF COMICS』(Maurice Horn編、CHELSEA HOUSE刊)にはその速記録が収録されており、かなり容易に一次資料に当ることができる。

 仮にワーサム戦犯説をとるにしてもこれらにおけるワーサム自身の発言や件のアンチコミックスクルセイドを引き起こしたとされるワーサムの著作『Seduction of Innocent』の記述に準拠して発言すべきであり、あきらかに作者の意図に反する文脈であの研究書の題名をちらつかせるのは単に不誠実であり、有体にいえば嘘である。

「失敗者」という自意識

以上に書いたことと一見無関係で、たぶん実際にも関係ないと思われるくだらない自分語りだが、私は自分のことを「失敗者」だと見做している。

これはべつに世俗的な「成功/失敗」の話ではなく、もっと単純にある物事をおこなおうとして果たしそこなったひと、というごく単純な意味合いでの「失敗者」なのだが(世俗的な意味でもたぶん失敗者だろうが、そのことは本当にどうでもいい)、私にとっては90年代の日本におけるいわゆるアメリカンコミックスブームは完全な失敗、挫折の経験としてのみある。

読者やファンがどう感じたかとは無関係に、紹介者になることを意図していた人間が日本マンガに欠落している翻訳部門としてアメリカンコミックスの安定した市場を形成できなかった以上、なにをどういい繕おうとそこにはけっきょく「失敗」しかない。

99年以降の私はじつはその「失敗」のツケをどう払おうかということ以外はあんまり考えていないし執着も持っていない。

現在では私はその失敗の原因が「閉鎖したマニア市場に自閉する方向に一直線に向かっていた」当時のアメリカンコミックスのあり方をその閉鎖したマニア市場としての性格を込みで輸入しようとしたことだったんじゃないかと感じているが、このように考えるに至ったのはアメリカのダイレクトマーケットの仕組みとその性格についてかなり詳しい知識を得てからのことであり、こうした情報を知ってからはアメリカのコミックスブーム期を単純に「いい時代」、市場が拡大していた時代とは思えなくなっている。

以前、発行部数に対するダイレクトマーケット占有率の推移からコミックスブームが行き詰っていった経緯を検討したが、現在の私は作品的にも単に事実としてあの時代にはひたすら内容の「類型化」が進行していたのであって(それが「Grim & Gritty」という言葉の意味するものだ)、コミックスブームが行き詰っていったのは当然の帰結だと考えている。スコット・マクラウドも『ReInventing Comics』(DC Comics刊)で指摘しているようにそのことを認めないことは「失敗からなにも学ばない」ことになる。

私がアメリカのコミックス研究書を発作的に集めはじめたのはちょうど「自分たちは失敗した」という明確な自覚を持った99年頃からのことで、それは文字通り「発作的」なものだった。なにしろそれまであまり買ってこなかった活字系の資料をアマゾンなどを通じて盲買いしたため、最初のうちは文脈もなにもわからないずキーワードサーチで引っかかったものをとにかく買っていた、当然実際届いた本を見てさらに途方に暮れることになる。

当時も現在も私の英語力なんてたいしたものじゃないので、いきなり研究書なんか読もうとしても全然読めなかったのだ。仕方がないので、繰り返し繰り返し辞書を引きながら同じ箇所を意味がわかるまで何度も読むことになる。最初のうちは本の文脈も読めないので、どーでもいい要らない本もけっこう買った。

私がネット上で資料の紹介や翻訳をやろうと思ったのは、そんな酔狂なひとがいるかいないかはわからないが、他のひとが似たようなことをやろうとした際にこうした無駄な試行錯誤を減らせるといいと考えたからだ。その「発作」発病後の私のアメリカンコミックスに関する仕事は基本的にそういう発想でなされている。

そして、やればやるほど強く思うのは「こんなことは誰も必要としてないんじゃないか」という絶望的な感覚である。

だからといって、私は大塚英志じゃないので「アメコミブームは不良債権化した」とか啖呵切る気はないし、自分の「失敗」という感覚を他人に押し付けようとも思わない。だが、それでもやっぱり自分と同期のひとたちが「失敗なんかしていない」と叫んでいるのを見せられると思わず顔を背けたくなってしまう。

もう駄目なのかもしれない。

以下は上記のエントリのコメント欄

# 第三者 『論破されると議論する気がないと逃げといて
相手がいないところで陰口かい。
議論したくないならしたくないでいいでしょうし
無駄な議論ならするだけ無駄なのは事実です。
しかしならば潔く黙るべきでしょう。
見苦しい。』

# boxman 『たぶん、あなたはまったく私がなにをいっているか理解されてないと思いますよ。なんなら田中さんにトラックバック打ってもいいですが?』

# boxman 『はい打ちましたよ、コレでいいですか? こんな自分とあまり関係のないエントリでトラックバック飛ばされても田中先生も困惑なさるかも知れませんが。』

# 韓リフ 『TBは来てないですが、ITOKさんにmixiでこの新規エントリーを教えてもらったので気が付いてましたよ。それとだめですよ、このナイバーグネタとワーサムネタをいま公開しちゃあ。僕の学習がある程度(基本的なアメコミ本や研究書をこなしてから)までいった段階でこれをネタに使徒さんたちに「おまんら読んでもないの人様の本の内容歪曲すな!」と啖呵きる予定だったんですから。秘めてた楽しみが減りましたw。

それと

<そして、やればやるほど強く思うのは「こんなことは誰も必要としてないんじゃないか」という絶望的な感覚である。>

氏ぬな、活きろw』

# boxman 『あ、おかしいなあ。手動で送ったんですが? 田中先生(でいいんですよね?)、いやもう一見して完璧に絶望的な気持ちになったので山形さんがなにを煽ろうがはっきりどうでもよくなりました(w やっとさっきzeroesさんがどうこうって話を発見して読みましたが、アレは田中先生の解釈が正しいんじゃないでしょうか。私の癖というか欠点として市場の話と文化の話を割りと混同してやっちゃうトコがあるんで。ご指摘のとおりあのエントリ自体割りと流して書いたものですし。
> 氏ぬな、活きろ
いや、でも死にたくもなりますよ、ホント。』

# ITOK 『はじめまして,ITOKと申します。 コメントを歓迎なさっていないご様子なので差し控えておりました。 上記“韓リフ”は田中先生が使っていらっしゃるHNなので,田中先生で間違いありません(その他,“韓流好きのリフレ派”も用いていらっしゃいます)。

逆説的な言い方になりますが,絶望的な状況があるからこそ,箱男さんの活動が必要とされるのではないかと思います。
ということで,死んでもらっては困りますw
これからも,ご活躍ください。』

# 堺三保 『面目ない。
確かに序文読んでなかったし、本文も自身のアメコミ史観に引きずられて読んでしまっていましたよ。Comiies, Cowboys, and Jungle Queensの記述と記憶がゴッチャになってた部分も大いにあるし。 もっと精進します。
ただ、増田本の主張とも田中氏の理論ともズレてることは確かなんですが。
いや、そうはいっても、トンだトンチキで申し訳ない。

あと、増田本は明確なアンチ大塚本なんで、そのへんをどう読むか、小田切さんの感想を聞いてみたい気もします。

最後にもう一つ。
いや、「責任感じろ」って、わたしや海法くんに怒ってるらしいのはわかりますけど、「失敗してない」なんてことは言ってないですから。

ただ、「甘い」と言われるかもしれないけど、そんなに暗く突きつめて考えない方がいいと思います。
高橋良平さんによれば、日本におけるアメコミ輸入の目論見は戦後6回行われてことごとく潰えているわけだけど、逆に言えば失敗しても失敗しても、また次のアクションが続いてきたってことだし、アメリカ本国でのアメコミ出版だって、この10年ちょっとの大々的な後退のあとに、再興がまたあるかもしれないじゃないですか。
メディア展開はうまくまわってんだし。

それに、わたしなんかは見るのがイヤで、9.11以降、一時期アメコミから目を逸らしちゃったわけだけど、その部分についてしっかり特集した「アメコミ最前線」とか、小田切さんが良い仕事してるのは、見てる人はちゃんと見てると思いますよ。』

# boxman 『> ITOKさん
べつにコメントを歓迎していないわけではなく、ウェブでの「議論」みたいなものを信じてないだけですので、なにか書きたいことがあれば書いてもらってかまいませんよ。見ればわかりますが、私は無内容な罵倒すら消しません(SPAMは消します)。情報提供ならむしろ積極的に歓迎します。
> 堺さん
私はべつに怒ってません。ただ、死にたくなっただけです(w こういうエントリは書くのにものすごく手間がかかるんで、田中先生のコメントも参照して気をつけてもらえると助かります。とりあえず「「序文」は読んでなかった」という言い訳は本文でナイバーグがこういうことを主張してないようにも読めてしまうんでやめましょうよ。
それと、アメリカではコミックスは現在スーパーヒーローコミックスも含めはっきり隆盛していますし、それはたぶん僕らが90年代にほとんど無視していたスモールプレスエキスポ組や日本マンガ/アニメの影響を受けたグループの活動と努力が遠因です。 現在私は「80~90年代のコミックスブーム自体が袋小路だった」という考え方を取っていますが、たぶんこれは日本のアメコミファンからはあまり歓迎されない見方だろうし、堺さんだって首肯しがたいんじゃないですか? ただ、僕としては堺さんに考えてもらいたいのはそこだけなんですね、「現実を見ましょうよ」っていう。』

# 債鬼 『研究なんてのは、後世の誰か一人の役に立つだけでも上等なので、
そのまま死ぬまで続けてください。』

# 猫男 『>見ればわかりますが、私は無内容な罵倒すら消しません
てめーが無内容な罵倒しか書いてないんだから当たり前ですって。。w』