目次2099/12/31 02:25

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“増田本論争”関連

順次整理していく予定

ドメイン別にお弁当(“bento”)をGoogleで画像検索するリスト2009/01/17 22:38

Google画像検索で“bento”及び“bento box”をドメイン別に検索するためのリストです。
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英語圏では“bento box”の方が弁当に絞り込めます

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地域別にお弁当(“bento”)をGoogleで検索するためのリスト2009/01/17 22:33

Googleで“bento”及び“bento box”を地域別に検索するためのリストです。
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言語別にお弁当(“bento”)をGoogleで検索するためのリスト2009/01/17 22:30

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ドメイン別に用語“kawaii”をGoogleで画像検索するリスト2009/01/16 23:59

Google画像検索で“kawaii”をドメイン別に検索するためのリストです。

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地域別に用語“kawaii”をGoogleで検索するためのリスト2009/01/16 23:57

Googleで“kawaii”を地域別に検索するためのリストです。

-増田本関連- 箱男氏のブログの再録32007/10/15 21:25

以下は旧箱男氏のブログの“http://d.hatena.jp/boxman/20060626.html”を箱男氏の了承を得て再録したものである。

再録にあたり若干タグの編集を行っているが基本的にはそのまま掲載している。

■スーパーヒーローコミックス=ロボットアニメ説

 どうやらこことかここから見にきているひとがいるようだが、見にきたひとからどういう期待をされているのかわからないけど、実際問題これとかに私が異論があるかというとべつにない……というか、この発言でいわれていること自体じつはそれほど目新しいものだとも思えないのだが。たとえば何度か言及しているこれとか、あるいはずいぶん前に書いたこれとかね。それにぶっちゃけid:ceenaさんなんかはマット・パスツの『Comic Book Culture: Fanboys and True Believers』(University Press of Mississippi刊)読んでる訳だから特にファンやコミックショップの件なんかあれに書いてあることがいわれてるだけで目新しくもなんともないはずなんだけど。

 だいたい私はスーパーヒーローコミックスをストレートに日本のマンガと比較するのは無理があるんじゃないかと思っていて、けっこう昔から「スーパーヒーローコミックス=ロボットアニメ説」というのを唱えている。

 これはもともとは90年代にほぼピークに達したXメンに代表されるクロスオーバー型の作品がつくり方的にマンガよりもむしろ日本のテレビアニメに近いやり方でつくられていることから発想したものなんだけど、その後スーパーマンが1939年の時点でキャラクターマーチャンダイズ展開をしていたことを知ってスーパーヒーローコミックス自体が「自律した物語」というよりもスーパーヒーローというキャラクターマーチャンダイズにおける「物語担当メディア」なのだという結論に達し、以後カントクいうところの「ただオモチャのロボットを売るためにつくられた」ものとしてのロボットアニメとパラレルに考えたほうが日本人にとって理解しやすいものじゃないかと考えている。

 ……まあ、ンなこといってもなんのことだかさっぱりわからないと思うんで、めんどくさいけど少し説明するが、アメリカンコミックスと日本マンガの違いとしてよくいわれるライターとアーティストの「分業制」というのはじつは同一出版社のすべてのキャラクターが同じ世界観を共有しているスーパーヒーローコミックスの場合、本当はもう少し大きなレベルで括るべきもので、特にXメンやバットマン、スーパーマンなどの複数のタイトル(つまり『アンキャニィXメン』とか『ニューXメン』とかいった個々のコミックブック)が常に関連性を持ちながらまとまったストーリーを語っていくようなものの場合、実際にその全体のストーリーを主導的に取りまとめていくのはそのグループ全体を統括するチーフエディターであり、これがテレビアニメにおけるシリーズ構成、監督の役割を果たしている。つまり、この場合、個々のタイトルのライターの役割は日本マンガにおける「原作」といったニュアンスからは程遠く、むしろテレビアニメ各話の脚本家の位置づけに近い(私はスーパーヒーローコミックスのライターの仕事に対し「原作」の語を使わず、「脚本」としか書かないことにしているのだが、それはこういうニュアンスの違いがあるためだ)。

 たとえば現在ユニバース全体で一大クロスオーバーを展開中のDCコミックスの場合、このグループのレベルをユニバースすべて(つまり自社で出しているスーパーヒーローコミックスすべて)に拡大して展開しているわけで、わかりやすくいえば総監督(つまりトミノ)がチーフエディタのダン・ディディオで彼の構想のもと具体的に各話のストーリーを脚本化していくのがグレッグ・ルッカやゲイル・シモーヌやジュド・ウィニックといった各タイトルの担当ライター、これに対して作画監督にあたるのが各タイトルの担当アーティストということになる(「演出」についてはライターとアーティストのコンビによってかなりやり方が異なる。『Writers of Comics Script Writing』(Titan Books刊)を見るとグラント・モリソンなどはほぼ完成したネームレベルのサムネルを作成してアーティストに渡しており、ルッカは映画の脚本レベルのもの、カート・ビュシークは脚本段階でコマ割りまでは指定しているようだ。しかし、フランク・ミラーのインタビューを読むと、それも組むアーティストが違えばその辺の呼吸も異なってくるようで要はコンビで仕事をした経験値によって違いが出てくるものらしい)。

 このスーパーヒーローコミックスのやり方をたとえば同じライター/アーティストの分業制だからといって梶原一騎、ちばてつやの『あしたのジョー』なんかとストレートに比較するのはどう考えても無理がある。日本のもので比較するなら個人的には『ガンダムエース』をお勧めする(冗談ではなくまじめに)。

 つまり、まずこのメディアはつくり方そのものが日本のマンガよりも日本のテレビアニメに似ているのである。

 そして、なぜこのメディアがこのような性格を持つに至ったかといえば、おそらくそれはシーゲルとシャスターがナショナルコミックス(というかハリー・ドネンフェルドとジャック・リーボウィッツ)にたった130ドルでスーパーマンの版権を売り渡してしまったからなのだが、なんで作者が版権を売り渡したらメディア自体の性格がそんな風に規定されてしまったのかといえば、スーパーヒーローコミックスがその最初期の段階でこのふたりの商売人の手で展開されることになったことによって「作家の作品」ではなく結果的に「スーパーマンというキャラクターを使った多角的マーチャンダイジングメディア」になったからだ。

 チップ・キッドの装丁がとても美しいレス・ダニエルズの『SUPERMAN: THE COMPLETE HISTORY』(Chronicle Books刊)の表現を借りればそのとき「スーパーマンの新しいイメージは増殖し続け、すぐに量的な面だけでシーゲルとシャスターがコントロールできるレベルを超えてしまった」ということになる。

コミックブックの王者としての存在感をしっかりと確立したスーパーマンは他の分野へとその影響力を広げていった。この点で産業の発展に重要な役割を果たしたのはDCの子会社、スーパーマン・インクを任された元パルプ作家のロバート・マックスウェルだった。マックスウェルはスーパーマンの名前とイメージを使ったさまざまな商品へのライセンスビジネスをはじめた。そのうちのいくつかはスーパーマンの知名度を利用したオモチャの類であり、他のものはただすでにあるモノにスーパーマンのロゴや絵柄をあしらったキャラクター商品だった。

 最初のスーパーマングッズが生産、出荷されはじめたのは1939年だった。コミックスファン向けにはファンクラブ「スーパーメン・オブ・アメリカ」が設立され、会員が募集された。会員たち(おそらく当時数十万はいたと思われる)は懸賞に応募し、スーパーマンリングとスウェットシャツを手に入れた。1940年にはスーパーマン商品の洪水は社会現象化した。パズルやお絵かきセット、紙人形、ゲーム、グリーティングカード、塗り絵、キャンディと風船ガム(トレーディングカードつき)、プラスチック以前のこの時期、1940年のスーパーマンフィギュアは木か金属でつくられていた。たぶんこの年につくられたもっとも印象的なアイテムはデイジー製作所製の「オフィシャル・スーパーマン・クリプト・レイガン」だろう。このピストルは内蔵されたフィルムのコミックストリップの画像を近くの壁に映写するもので、あの過ぎ去った日々のものがみなそうだったようにバッテリー内蔵式だった。

 子供たちはスーパーマンのイラストのついた遊び着や靴下、シャツ、モカシン、それに下着を着て、スーパーマン財布にお金を入れて、晩御飯にスーパーマンパンを食べた。ライセンスビジネスは二度、三度おいしい宝の山であることがわかってきた、なぜなら放送局や映画制作者たちがこの「鋼鉄の男」を取り上げる度に関連商品もまた急増したからだ。それは何十年ものちにメディアの専門家たちが「シナジー効果」と呼ぶことになるもののはじまりだった。

(「EXPLOSION」、Les Daniels、『SUPERMAN: THE COMPLETE HISTORY』、Chronicle Books刊、1998年、47~50ページ)

 一般的には「キャラクターマーチャンダイズ」という考え方はルーカスの『スターウォーズ』にはじまるとされることが多いが、この記述を見る限りではこの1939年から1940年のDC(ナショナル)コミックスのスーパーマンのライセンス展開でその手法はほぼ完成していることがわかる。

 40年代、50年代のスーパーマンのラジオドラマや映画、テレビドラマへの展開もDCが「仕掛けた」ものであり、このあまりにも巨大な成功が以後の「スーパーヒーローコミックスというメディア」の性格をほぼ決定付けてしまっている。

 つまり、スーパーヒーローコミックスとは本質的に「子供にオモチャやキャラクターグッズを売るためのメディア」なのであり「だからバカにされている」のである。

 私がスーパーヒーローコミックス最初期におけるこの現象を知って「スーパーヒーローコミックス=ロボットアニメ説」にほぼ確信を持ったのもこの点による。

 そう考えれば60年代、70年代、80年代とスーパーヒーローコミックスの内容が高度化し、読者が高年齢化するにつれ、ファンサイドから盛んに「スーパーヒーローコミックスは単なる子供向けのものじゃない」という主張が出てくるのも、それが「ガンダムSF論争」のようなものだと思えば日本のちょっと年齢のいったアニメ、マンガファンにとってはほぼ納得できるものになるはずなのだ。『ダークナイト』と『ウォッチメン』をロボットアニメにおける『ガンダム』だと仮定すれば、「グリム&グリッティ」の流行もガンダム以降の「リアルロボットアニメ」ブームに対応させればほぼ問題がクリアに見える。

 いうまでもないことだが、私は「日本マンガと比較してスーパーヒーローコミックスはくだらない」という意見には与しない。それは「ロボットアニメはマンガと比較してくだらない」といっているのと大して変わらない行為だからだ。だが、同時に私は「スーパーヒーローコミックスは子供向けを超えたすぐれたエンターテインメント」だとも主張しない。いまの私は「べつにガンダムがSFじゃなくてもまったくかまわないじゃないか」としか思っていないのとそれはほぼ同じことだ。

 スーパーヒーローコミックスは要するに『スーパーロボット大戦』であり、『ガンダム』であり、『マジンガーZ』であり、『鉄人28号』であり、『エヴァンゲリオン』であり、『ガオガイガー』であり、そういうものとしておもしろいのであって、それでなにか問題あるんだろうか。

 私にとってはなにもない。

以下は上記のエントリのコメント欄

# JKY 『スーパーマンってのらくろと同い年なんですよね。
なんつーか本中華。』

# 韓リフ 『見にきたひとからどういう期待をされているのかわからないけど>

ネタじゃね?』

# しゅん 『つまり、90年代後半以降の単価の上昇とTPBやスピンオフの増加は、日本のアニメが
おもちゃを売りつけることから、DVDなどその商品自体で利益を得るシステムに移行
していることとリンクしているってわけですか?』

# tanakahidetomi 『 いうまでもないことだが、私は「日本マンガと比較してスーパーヒーローコミックスはくだらない」という意見には与しない。それは「ロボットアニメはマンガと比較してくだらない」といっているのと大して変わらない行為だからだ。だが、同時に私は「スーパーヒーローコミックスは子供向けを超えたすぐれたエンターテインメント」だとも主張しない。いまの私は「べつにガンダムがSFじゃなくてもまったくかまわないじゃないか」としか思っていないのとそれはほぼ同じことだ。>

まあ、こう考えるのが普通かもしれないけれども、それは他方でスーパーヒーローコミックスと日本のマンガを比較する共通の分析的枠組みへの関心を閉ざしてしまいかもしれませんね。例えばある国独自と思える商業文化の一ジャンルが他の国のまったく無縁とも思える一ジャンルと実は市場の構造が同じで、そこからそのジャンルの表現形態やファン層の嗜好まで規定されているとしたら、やはり両者を比較することは無駄なことじゃないでしょうね。』

# boxman 『> しゅんさん
> 90年代後半以降の単価の上昇とTPBやスピンオフの増加は、日本のアニメがおもちゃを売りつけることから、DVDなどその商品自体で利益を得るシステムに移行していることとリンクしている

単価の上昇はアメリカのコミック出版社のダイレクトマーケット依存のあらわれである部分が大きいですが、TPB出版の増加に関してはしゅんさんの御指摘は比喩としてはけっこう妥当だと思いますよ。日本のマンガ自体が雑誌から単行本中心に移行したのは70年代のことでいまのアメリカのコミックス産業はこの時期の日本マンガに近いんだと思っています。なんにせよ私がいってるのは「こう考えると理解しやすい」という話であって「同じものだ」といっているわけではありません。

> 韓リフさん
> ネタじゃね?

だから「スーパーヒーローコミックス=ロボットアニメ説」ってのはこりゃ「ネタ」ですよね

>例えばある国独自と思える商業文化の一ジャンルが他の国のまったく無縁とも思える一ジャンルと実は市場の構造が同じで、そこからそのジャンルの表現形態やファン層の嗜好まで規定されているとしたら、やはり両者を比較することは無駄なことじゃない

ええ、私はその両者を比較することが無駄だとはいってないわけです。むしろ比較すべきだといっている。ただ「日本のマンガ」という大きな括りと比較するのならばそれと対応するのは「スーパーヒーローコミックス」ではなく「アメリカンコミックス」であるべきだと思う、ということなんです。私が問題を感じているのは擁護するにしろ批判するにしろ「アメリカンコミックス」という語が日本で使われる際にそのメディアなり文化としての全体像がどのようなものかが検討されずに「自分の知っている断片的な情報」だけが語られていることです。それはあるときはスーパーヒーローであり、あるときはコミックストリップであり、あるときはアンダーグラウンドコミックスであるわけですが、それらをひとまとまりにして「アメリカンコミックス」とはこういうものだ、ということがでは誰かいえているでしょうか? その意味で「アメリカのマンガ・アニメの世界になるべく広い網をかけなければ説得力が出てこない」という増田氏の主張はしごくもっともなのです。そしていまの日本にアメリカでいう「comics」という言葉のニュアンスを日本人として「マンガ」というときほどはっきりつかまえている人間はほとんどいないだろうと思います。私の考えではそういう感覚があるのは小野耕生さんと片岡義男さんくらいなもので、あとは私を含めよくわかっていない。で、私はまずこの「よくわかっていない」ということからはじめて「こう考えるとわかりやすい」ってのを積み重ねていくしかないだろうと思ってるんですが、この「よくわかっていない」こと自体がうまくわかってもらえないんですよ。やればやるほど皮肉なことに「詳しい」とかって話になりますしね。』

# tanakahidetomi 『ただ「日本のマンガ」という大きな括りと比較するのならばそれと対応するのは「スーパーヒーローコミックス」ではなく「アメリカンコミックス」であるべきだと思う、ということなんです>

僕にはこの引用の意味が実はよくわかりませんが、増田さんの史観だと経済学の基本的競争モデルみたいなのがある。それでアメリカンコミック市場と日本マンガ市場を比較して、この競争モデルからの偏差をはかっていく、と思うんですよね。その偏差が象徴的に「スーパーヒーローコミックス」に表れているならば(あるいは別な視点ですがこの分野の偏差と日本マンガの偏差の対比が興味深ければ)、これと「日本のマンガ」を比較しても別にかまわないように思えます。

<「comics」という言葉のニュアンスを日本人として「マンガ」というときほどはっきりつかまえている>

ということも僕はこの種の嗜好あるいは趣味さえも市場の特性によって生み出されるという形で考えると、上に書いた基本的競争モデルからの偏差として、異なる次元のものを比較することも可能になるように思えるのです。

例えば大塚史観を増田さんは批判してますが、これも基本的競争モデルというデフォルトをもってみてる人(増田)、と各国ないし各ジャンルが独特のモデルを持っていて容易に比較を許さない人8大塚)との対立なんだと思うのですよ。』

# boxman 『> 田中先生
> この種の嗜好あるいは趣味
 非常に説明するのがめんどくさいのですが、私の感覚ではこの部分を誤解されていると思います。
 私が常に困っているのは「スーパーヒーローコミックス」とか「アンダーグラウンドコミックス」とか「コミックストリップ」といったものが単なる「嗜好の差」であるとは必ずしもいえない点です。
 先のエントリでも書きましたが、実際のところ私が増田氏の本でもっとも問題だと思っているのは、増田さんがコミックブックをコミックストリップとほぼ同一のメディアだと捉え、スーパーヒーローコミックスに代表されるコミックブックへの批判のみをおこなってコミックストリップの存在自体をほぼ無視している点で、それではコミックストリップがコミックブックとはほぼ無関係に延々とそれこそ一般書店を含めた主流市場で売れてきた理由がまったくわからないんですよ。
 つまり、これらは必ずしも同一の市場で競争してきたわけではない。社会的に隠蔽されてきたポルノコミックスなんかは特にそうですが、アメリカのコミックスの最大の特徴はおそらくこの複数の市場がバラバラに存在しているのに一般的にはなんとなくひとつのモノとして語られてしまっている、という点にあると思います。私の感覚ではそのなんとなくひとつのものとして語られている「アメリカンコミックス」というものが鵺のように捉えがたくわかりにくい。
 私のつたない理解では、増田氏の批判は知的エリートによって規制され階層化した市場構造への批判だと思うのですが、このアメリカのコミックス市場の特徴はまさにそうした階層化した市場の格好の実例ではないかとも思います。
 特にコード成立以前にまったく理由もわからず起こっているコミックストリップとコミックブックの分裂のほうがおそらくは「知的エリート」の問題からいえば重要であって、その意味では私なんかからすると増田氏はむしろガキ向けの娯楽であるコミックブックを「日本マンガ」的なものとして擁護して、新聞のコミックストリップや『ニューヨーカー』などの高級誌に掲載されてきたマガジンストリップを「知的エリート」のためのものとして批判してくれたほうが話としてはわかりやすい。そして、そうした批判がなされたうえで、スーパーヒーローコミックスなんかの限界が階層構造を持たない日本市場との比較で指摘されるのならばこれは非常にすぐれた論考になるだろうと思うのです。
 私の考えではいまアメリカでは書店市場にコミックスの主流市場が統合されつつあることで「はじめて」割りと平たい「コミックス/グラフィックノベル」という括りで日本マンガを含めた「マンガ」全般の自由競争市場が現在進行形で出来上がりつつある(しかし、たとえばポルノコミックスやクリスチャンコミックスなど依然としてそこからスポイルされ続けるだろうものもある)ところだということになるのですが、それは逆にいうと市場がそれまでバラバラだったということで、これは個人としての「嗜好」や「趣味」でいっているわけではないのです。
 単に嗜好の問題だけからいえばこのエントリでも書いているように「オレは酔狂なのでスーパーヒーローコミックスを永遠に愛するぜ、以上、終わり」なんで、少なくとも私はその点を主張しようとは思わないんですね。オレ、読者としてはそうとう趣味悪いですし。』

# tanakahidetomi 『boxmanさん、各消費主体の嗜好ごとに市場が差別化されるってのは別に経済学では不思議でもなんでもないんですよ。それらの市場が渾然一体となって「アメコミ市場」となっててもです。ブラックマーケットもこの中に含めてかまいません。経済学というのは基本的競争モデルというデフォルトがあってそこからすべてを見るのが一般的でして、boxmanさんのいう階層構造をもつ市場、もたない市場というのもすべてこの基本的競争モデルという観点から評価するわけです。いいかえるとあらゆる市場がこの共通のモデルから評価可能と考えるわけですから、事実上の質的な問題は存在しない、という分析的な見地にたっているわけです。嗜好の問題も「おれこっちのほうがすきだぜ終わり」でもいっこうにかまわなく、そのおわりだぜ行為の選択サンプルをもとに、boxman的嗜好をあぶりだすのが経済学者の嗜好となります。ここが経済学者が嫌われるところでして、趣味とか嗜好に独自の意義を見出すよりもあくまで観測された選択の中で制御するわけです。それでも最近はかなり心理学的にはなりましたが、ベースラインは基本的競争モデルとそれによって形成される観測された嗜好・趣味のみですね。ですので誤解しているというよりも増田理論のベースはそういった観点ですし、この限定された分析手法勝負しているといいたいわけなのです。ところがこの限定が、boxmanさんでは「終わり」な議論をほりさげて、一見異なるものの中に基本的競争モデルから評価できる構造?を見出すことができるので、またまた経済学はある種の人からは「おれのこのみでおわりなのになにやってんだよ」的批判の対象にもなるのです。繰り返しますと、別段、なにとなにを比較する上での歯止めなどいっさいなく、「終わり」ということもこの学問にはないですね。ちなみにねずみのとるにたりない行為とスーパーヒーローコミックスが好きな人の嗜好を比較することもべつにできます。比較してその観点から後者の最適性を評価して批判することもですね。』

# JKY 『不毛な…』

# わるたあ 『「例の本」市場には結構悪影響を与えているようですね。
日本万歳を叫ぶにやぶさかでない出版社などはあると思いますが、
よりによってビジネス関係でも絶賛されるだなんて・・・
これを転載する気もおきませんので、これが意図せずしてあがった
2chのスレッドのみリンクします。
http://anime.2ch.net/test/read.cgi/asaloon/1116336668/l50
ここの325から335のあたりです。
自己愛的な愛国主義に漫画が使われる現状に寒気がします。
漫画もアニメも現場を見ることのない石原あたりの手合いが漫画をとことんだめにしていく気がしますから。アニメなんかモロです。』

# reds_akaki 『具体的に名前やurlを挙げてください>わるたあ様
処で、『コミックファウスト』の太田克史による成田兵衛、茨木政彦インタビューは読みましたか?
「僕は、キャラクターとしては麻生大臣みたいな人、好きなんですけどね(笑)」とは、至言です
tanakahidetomi様 スーパーヒーローコミックとロボットアニメとの比較は、内田樹とかもやっている云わばお約束なのですが』

# tanakahidetomi 『ちょっと本業が忙しくてレス(しなくてもいいかもしれないれども 笑)遅れてすみません。

>JKYさん。それはあなたが合理的推論を徹底して考えたことがないからです。

>reds akaiさん。そうですか、定番解釈なんですね。定説は丁寧に扱わないといけませんね。でもそれだけでよし、とする自閉的な態度にboxmanさんのは読めちゃんですよ。違ったら須磨祖。』

# 松山 『>tanakahidetomiさん
横レス失礼します。お久しぶりですね、田中さん。
JKYさんが「不毛」と言ったのはあなた自身に人の意見を聞く気が
まるでなくて、頭ごなしに否定して持論を押し付ける事しか頭になく建設的な議論をする気がないからだと思いますよ。私には田中さんの姿勢の方が自閉的に見えます。
まあ、私や堺さん、海法さん、そして今回の箱男さんとのやり取りを見ても田中さんは人と意見を交換しあうといった他者とコミニケーションをする上での一般的な常識が欠落しているようなので(それが経済学者特有の気質か田中さん個人の気質なのかは分かりませんが)気をつけたほうがいいですよ。特にここは御自分のHPではなく他所様のHPなんですから。
さらに言えば一般の掲示板で2ch用語を使いまくるのもよくないですね。田中さんが2ちゃんねらーなのは別にかまいませんが、そういった事と無縁の人から見たらただ不快なだけです。』

# tamaki 『まぁ、長文コメントは御自分のブログでやってくださいってことで。』