-増田本関連- 箱男氏のブログの再録 ― 2007/10/10 00:21
以下は旧箱男氏のブログから箱男氏の了承を得ての再録である。
いわゆる「増田本論争」において話題のひとつであったフレデリック・ワーサムとコミックスコードについて重要な事柄が書かれているので再録させていただいた。
山本弘氏による増田本批判に対しても重要な意味を持つと考える。
某所で地雷を踏んでかなり困惑したのだが、それは単におかしい話だからべつにいい。
そこでかなり絶望的な気分にさせられるもの・・・・を目撃したので、そのことに関連した事柄について私的にメモしておく。
Amy Nyberg『SEAL OF APPROVAL: the history of COMICS CODE』とコミックスコードの影響
以下に引くのは『SEAL OF APPROVAL: the history of COMICS CODE』のイントロダクションからの引用である。本文ではなく本の最初に収録されている「序文」に書いてあることだ。
コミックファンダムの歴史家たちのあいだには根強い信仰として「コミックスコードのためにコミック業界はほとんど壊滅状態に陥った」というものがある。そして、この見方はアカデミックな研究者たちのあいだでも受け入れられている。だが、こうした見方は他の、より重要な影響力の存在を隠蔽してしまう。コード策定後の数年間、コミックス業界の売り上げは上昇していた、コードの施行はこの業界の直面した不況に対しては部分的な説明にしかなりえない。まず1950 年代半ばにコミックス業界が直面したのは流通業者の問題だった。彼らにとっての「問題」は「議論の余地のある」コミックスを扱うことへの流通業者からの抵抗より、むしろ当時過半数のコミックブックの流通をおこなっていた「アメリカン・ニュース・カンパニー(American News Company)」が政府の独占禁止法施行を受けて雑誌流通から手を引く決断をしたことのほうだった。アメリカン・ニュース・カンパニーの消滅は多くの出版社から彼らの本を市場へ流通させる手段を奪ってしまった。第二に多くの出版社は単にコミックブックの売り上げ低下からくるごく一般的な経済的苦境に直面してコミックビジネスから離脱している。このセールスの低下は二つの要因によるものだ。その要因の第一はコミックブックへのネガティブなイメージが喧伝されたことだが、第二の要因は子供の余暇時間を巡るテレビとの競争が激化していったことにある。ジェームス・ボウマン(James Baughman)は、その戦後アメリカ社会における既存のマスメディアが受けたテレビ登場の影響分析において、テレビジョンの登場が他のマスメディアを周縁化し、ユーザーのテレビを見る時間「以外」の時間のシェアを巡って競争していくように強要したのだ、と示唆している。だが、ボウマンは特にコミックブックに焦点を当てている訳ではない、彼の分析からはコミックブックがそのステイタスを回復し損ねた理由は抜けており、マスメディアとしてのより全般的な傾向と結びつけられている程度だ。その点でコミックブック出版社の緊急行動は彼ら自身の市場での在り方を立証するかのように、新聞社、出版社、映画製作会社、ラジオネットワークの同じような事態の際の行動を繰り返しただけのものだった。
だが、ウィリアム・ゲインズ(William Gaines)のE.C.コミックスのような会社がこの新基準の犠牲になったことは確かである。実際ほとんどのファン歴史家はE.C.コミックスの消滅をコードの影響の例としてあげる。しかし、ゲインズに起こったことは典型例というより、むしろ例外なのではないか。多くの出版社がそれでも新タイトルを出し続け、ようやく10年後にコミックスの「シルバーエイジ」をもたらすスーパーヒーローの再登場によってコミック業界はそれまでの数年間に失った領地を少しは回復することになる。ゲインズのコミックスはこの時期から新しい世代のファンに対して再版されるようになり、今日ではE.C.コミックスはそのアートワークとストーリーテリングの両面で特別な尊敬を勝ち得ている。コミックブックの「聖典」があるとすれば、そのリストの筆頭に上がるのはE.C.コミックスだろう。この1950年代のE.C.コミックスに対する敬意の存在が、ゲインズの会社の消滅とこの時期の業界全体の破滅が同一視されることを理解する助けになってくれる。コードがこのメディアのクリエイティブなアウトプットに与えた影響とコミックブック出版自体に与えた影響とを切り離して考えることが重要だ。「コミックスコードがコミックブックのクリエイティブな発展に悪影響をもたらした」とは論じられても、「コミックスコードがコミックブック出版にほとんど壊滅的な打撃を与えた」という意見を支持するのは難しい。
(「Introduction」、Amy Kiste Nyberg、『SEAL OF APPROVAL: the history of COMICS CODE』、University Press of Mississippi刊、X~Xii)
序文にはっきりとこのような作者の考えが明記されている本を引き合いに出して、それがさも「コミックスコードの影響でアメリカのコミックス市場は50年代に壊滅的な打撃を受けた」ことの根拠になるかのように主張することができるのは、「私の考え」ではそのように主張する人物がこの本を実際には読んでいない、もしくはどうせ誰も読まないだろうと考えて作者の意図を無視してはったりをかましている場合のみである。
またコードの導入とフレデリック・ワーサムの関係についてもナイバーグはこれも「序文」で以下のように述べている。
この子供文化への汚染に対する警鐘は継続的な公共的反響を呼び起こすには至らなかった。コミックブックの「問題」が公的な議論の柤上に上るのは、それらの子供文化をコントロールしようとする試みのあと、伝統的に公衆道徳の基準を形成してきた教会と市民グループが共同で大手メディアの注意を喚起し得るようになってからのことだ。アンチコミックスキャンペーンが成功した大きな要素のひとつはコミックブックを読むことを少年非行の問題と結びつけた点にある、この問題は社会による子供のコントロールが失われたことを改めて提起するものだった。戦後のアンチコミックスキャンペーンに先行するこうした動きを理解したとき、議論の力点が教育と道徳の問題から法と秩序の問題へと遷移した理由がはじめてクリアーになる。「社会による子供の管理」という原理主義的な信念に基づいて考えた場合、それらは同じものでなければならないからだ。この議論の遷移に際して重要な推進力となったのが、心理学者フレドリック・ワーサム(Fredric Wertham)のような専門家による警告だった。特にワーサムのアンチコミックス・クルセイドはメディアの関心を集め、コミックブックを子供を害するものだと考える人々に理論的な枠組みを与えた点で重要な役割を果たした。
本書において、私はコミックスへの攻撃がどのようにおこなわれたかを調査した。ローカルレベルでは市民、宗教団体がコミックブックに自分たちの基準を押し付け、そのコミュニティーの小売業者に圧力をかけていた。これらのグループには法的な拘束力はなかったが、自分たちがふさわしくないと考えるコミックブックを小売店の棚から排除するために不買運動を展開し、経済的に脅迫した。こうした「良識的な」運動は「アメリカ・カソリック教会良書普及委員会(Cathoric Church's National Office of Decent Literature)」や「シンシナティコミックス評価委員会(CincinatiCommittee for the Evaluation of Comics)」といった団体が発表し、「ペアレンツマガジン(Parent's Magazine)」に掲載された評価リストによって支えられていた。こうした運動は州の政治家たちの注意を引きつけ、やがて国家レベルにまで拡大する。第二次世界大戦後の数年、いくつかの州でこの問題を研究し、好ましくないコミックブックを抑制することを狙いとした法律制定推進するための立法検討委員会が設立されている。国家レベルでは、上院少年非行問題調査委員会にコミックブック問題の調査が持ち込まれ、非行問題とマスメディアとの因果関係の研究が着手された。
この上院での公聴会の重要参考人であり、アンチコミックス運動のリーダーだったのがワーサムである。彼はコミックブックは有害であり、16歳以下の子供へのコミックブック販売を規制すべきであるという立場をとっていた。しかし、ワーサムの主張は彼が主張したとしてしばしば非難される意見、「コミックブックを読む行為と少年非行の間に直接的な因果関係が存在する」のような単純なものではなく、はるかに複雑なものである。彼の信ずるところによれば、少年非行の問題は社会全体が「暴力崇拝」に陥っている事実に起因するのであり、コミックブックの存在はその表面化のひとつに過ぎない。彼は有害なコミックブックの排斥が少年非行の直接的な解決につながらないことを認識していたが、いっぽうでまたこうした動きが社会を改善するための第一歩になるとも信じていた。
これまで多くのメディア論研究者は、ワーサムの活動を「メディア現象に対する初期の垢抜けない社会学的研究の一例」であるとしてその価値を軽視してきた。また、現代の社会学者は彼の科学的方法論の欠如と結論を導きだすにあたってのデータ提示の不備を批判してもいる。私はこうしたワーサムの「道を踏み誤ったメディア論の先駆者」というイメージこそ誤ったものだと主張したい。実際にワーサムはメディア現象の社会学的研究の出現を攻撃し、自らの研究は「マスメディアの多元的学問研究(multidisciplinary study of mass media)」と呼んでいる。彼は自分のアプローチは「臨床医療的な方法論」によるものだと信じていた。彼は詳細な症例記録と看護、予後治療、そういう方法こそが長期的なメディア研究の唯一の正しい方法だと考えていたのである。
ワーサムの努力にもかかわらず、上院小委員会はコミックブック問題に対し法的な「治療計画」を策定せず、そのかわり業界自身が警察の役割を演ずるよう求めた。1954年10月のコミックスコード策定は多くの検閲を求める団体を安堵させ、業界側の政府による規制に対する恐れをも沈静させた。このときコミックブック業界が自主規制コードのモデルとしたのが他のマスメディアで既に採択されている同種のコード類だった。映画に対する多くの批判がコミックブックに対してほとんど同語反復的に繰り返されていた。コミック出版社にとって映画業界はあらかじめ用意された同型車のようなものだった。このためコミックスコードは1930年代に制定されたフィルムプロダクションコードの焼き直し以外の何ものでもなくなっている。コミックスコードは「クライム」と「ホラー」に関する規定に多くの紙幅を費やしている。このふたつのトピックスは特に大衆の怒りを出版社の頭上に振り向けたものだ。コードはクライムコミックスに関しては厳密なガイドラインに従ったものであれば新作の出版を許しているが、ホラーコミックスの出版は禁じている。しかし出版社は非行よりその道徳面に対して不満を漏らすグループからの批判の声にも応え、「言葉」、「コスチューム」、「家庭描写」などの項目をフィルムプロダクションコードの同種の項目をお手本として追加している。
(「Introduction」、Amy Kiste Nyberg、『SEAL OF APPROVAL: the history of COMICS CODE』、University Press of Mississippi刊、Viii~X)
たしかにワーサムはアンチコミックスキャンペーンのリーダーだったわけだが、ここでのナイバーグの記述が示唆するのは、彼のおこなったキャンペーンはあくまでも全米各地で自然発生的に起きていた「子供文化」への抑圧を求める動きを結果的に代表することになった、という見方であり、この「子供文化をコントロールする動き」がどのように生じていったかがこの本の最初の2章では詳しく検討されている。
より重要なのはこの記述からはナイバーグがこの本のワーサムに関する論述で意図したものは彼の「研究者としての業績の再評価」だということがあきらかにわかる点だ。この点は『Pulp Demons』(Fairleigh Dickinson University Press刊)所収の論文「The Sad Case of the Unhappy Humanist」(Martin Barker)や最近刊行されたワーサムの評伝『FREDERIC WERTHAM AND THE CRITIQUE OF MASS CULTURE』(Bart Beaty、University Press of Mississippi刊)などの一種のワーサム再評価の動きにおいても共有されているものだろう。
中でもナイバーグの研究を批判的に継承した『FREDERIC WERTHAM AND THE CRITIQUE OF MASS CULTURE』では晩年のワーサムがファンカルチャーに対して擁護的な立場に立っており『the Comics Journal』誌のゲイリー・グロスをはじめ多くのコミックスファンたちからのインタビューの求めにむしろ積極的に応じていた事実が紹介されていて、読んでいるとごく最近までアメリカのコミックスファンダムにおいてワーサムを「単なるキチガイ博士」、「コミックスコードの元凶」としてこと足れリとしてきたのは「そのほうが彼らにとって都合がよかったからではないか」というあらぬ疑いすらわいてくる始末だ。
したがって、こうした記述を「序文」においてすでにおこなっているこの本を「ワーサムとその著作がコミックスコードの直接的な原因だ」という主張の根拠になりうるかのように発言できるのはこれも「私の考え」では実際には本を読んでいないか、作者の意図を無視して恣意的にはったりとして書名を利用している場合のみである。
だいたいワーサムが証言した公聴会そのものがどういうものだったかはネット上にもその中間報告書が存在し、『THE WORLD ENCYCLOPEDIA OF COMICS』(Maurice Horn編、CHELSEA HOUSE刊)にはその速記録が収録されており、かなり容易に一次資料に当ることができる。
仮にワーサム戦犯説をとるにしてもこれらにおけるワーサム自身の発言や件のアンチコミックスクルセイドを引き起こしたとされるワーサムの著作『Seduction of Innocent』の記述に準拠して発言すべきであり、あきらかに作者の意図に反する文脈であの研究書の題名をちらつかせるのは単に不誠実であり、有体にいえば嘘である。
「失敗者」という自意識
以上に書いたことと一見無関係で、たぶん実際にも関係ないと思われるくだらない自分語りだが、私は自分のことを「失敗者」だと見做している。
これはべつに世俗的な「成功/失敗」の話ではなく、もっと単純にある物事をおこなおうとして果たしそこなったひと、というごく単純な意味合いでの「失敗者」なのだが(世俗的な意味でもたぶん失敗者だろうが、そのことは本当にどうでもいい)、私にとっては90年代の日本におけるいわゆるアメリカンコミックスブームは完全な失敗、挫折の経験としてのみある。
読者やファンがどう感じたかとは無関係に、紹介者になることを意図していた人間が日本マンガに欠落している翻訳部門としてアメリカンコミックスの安定した市場を形成できなかった以上、なにをどういい繕おうとそこにはけっきょく「失敗」しかない。
99年以降の私はじつはその「失敗」のツケをどう払おうかということ以外はあんまり考えていないし執着も持っていない。
現在では私はその失敗の原因が「閉鎖したマニア市場に自閉する方向に一直線に向かっていた」当時のアメリカンコミックスのあり方をその閉鎖したマニア市場としての性格を込みで輸入しようとしたことだったんじゃないかと感じているが、このように考えるに至ったのはアメリカのダイレクトマーケットの仕組みとその性格についてかなり詳しい知識を得てからのことであり、こうした情報を知ってからはアメリカのコミックスブーム期を単純に「いい時代」、市場が拡大していた時代とは思えなくなっている。
以前、発行部数に対するダイレクトマーケット占有率の推移からコミックスブームが行き詰っていった経緯を検討したが、現在の私は作品的にも単に事実としてあの時代にはひたすら内容の「類型化」が進行していたのであって(それが「Grim & Gritty」という言葉の意味するものだ)、コミックスブームが行き詰っていったのは当然の帰結だと考えている。スコット・マクラウドも『ReInventing Comics』(DC Comics刊)で指摘しているようにそのことを認めないことは「失敗からなにも学ばない」ことになる。
私がアメリカのコミックス研究書を発作的に集めはじめたのはちょうど「自分たちは失敗した」という明確な自覚を持った99年頃からのことで、それは文字通り「発作的」なものだった。なにしろそれまであまり買ってこなかった活字系の資料をアマゾンなどを通じて盲買いしたため、最初のうちは文脈もなにもわからないずキーワードサーチで引っかかったものをとにかく買っていた、当然実際届いた本を見てさらに途方に暮れることになる。
当時も現在も私の英語力なんてたいしたものじゃないので、いきなり研究書なんか読もうとしても全然読めなかったのだ。仕方がないので、繰り返し繰り返し辞書を引きながら同じ箇所を意味がわかるまで何度も読むことになる。最初のうちは本の文脈も読めないので、どーでもいい要らない本もけっこう買った。
私がネット上で資料の紹介や翻訳をやろうと思ったのは、そんな酔狂なひとがいるかいないかはわからないが、他のひとが似たようなことをやろうとした際にこうした無駄な試行錯誤を減らせるといいと考えたからだ。その「発作」発病後の私のアメリカンコミックスに関する仕事は基本的にそういう発想でなされている。
そして、やればやるほど強く思うのは「こんなことは誰も必要としてないんじゃないか」という絶望的な感覚である。
だからといって、私は大塚英志じゃないので「アメコミブームは不良債権化した」とか啖呵切る気はないし、自分の「失敗」という感覚を他人に押し付けようとも思わない。だが、それでもやっぱり自分と同期のひとたちが「失敗なんかしていない」と叫んでいるのを見せられると思わず顔を背けたくなってしまう。
もう駄目なのかもしれない。
以下は上記のエントリのコメント欄
# 第三者 『論破されると議論する気がないと逃げといて
相手がいないところで陰口かい。
議論したくないならしたくないでいいでしょうし
無駄な議論ならするだけ無駄なのは事実です。
しかしならば潔く黙るべきでしょう。
見苦しい。』# boxman 『たぶん、あなたはまったく私がなにをいっているか理解されてないと思いますよ。なんなら田中さんにトラックバック打ってもいいですが?』
# boxman 『はい打ちましたよ、コレでいいですか? こんな自分とあまり関係のないエントリでトラックバック飛ばされても田中先生も困惑なさるかも知れませんが。』
# 韓リフ 『TBは来てないですが、ITOKさんにmixiでこの新規エントリーを教えてもらったので気が付いてましたよ。それとだめですよ、このナイバーグネタとワーサムネタをいま公開しちゃあ。僕の学習がある程度(基本的なアメコミ本や研究書をこなしてから)までいった段階でこれをネタに使徒さんたちに「おまんら読んでもないの人様の本の内容歪曲すな!」と啖呵きる予定だったんですから。秘めてた楽しみが減りましたw。
それと
<そして、やればやるほど強く思うのは「こんなことは誰も必要としてないんじゃないか」という絶望的な感覚である。>
氏ぬな、活きろw』# boxman 『あ、おかしいなあ。手動で送ったんですが? 田中先生(でいいんですよね?)、いやもう一見して完璧に絶望的な気持ちになったので山形さんがなにを煽ろうがはっきりどうでもよくなりました(w やっとさっきzeroesさんがどうこうって話を発見して読みましたが、アレは田中先生の解釈が正しいんじゃないでしょうか。私の癖というか欠点として市場の話と文化の話を割りと混同してやっちゃうトコがあるんで。ご指摘のとおりあのエントリ自体割りと流して書いたものですし。
> 氏ぬな、活きろ
いや、でも死にたくもなりますよ、ホント。』# ITOK 『はじめまして,ITOKと申します。 コメントを歓迎なさっていないご様子なので差し控えておりました。 上記“韓リフ”は田中先生が使っていらっしゃるHNなので,田中先生で間違いありません(その他,“韓流好きのリフレ派”も用いていらっしゃいます)。
逆説的な言い方になりますが,絶望的な状況があるからこそ,箱男さんの活動が必要とされるのではないかと思います。
ということで,死んでもらっては困りますw
これからも,ご活躍ください。』# 堺三保 『面目ない。
確かに序文読んでなかったし、本文も自身のアメコミ史観に引きずられて読んでしまっていましたよ。Comiies, Cowboys, and Jungle Queensの記述と記憶がゴッチャになってた部分も大いにあるし。 もっと精進します。
ただ、増田本の主張とも田中氏の理論ともズレてることは確かなんですが。
いや、そうはいっても、トンだトンチキで申し訳ない。
あと、増田本は明確なアンチ大塚本なんで、そのへんをどう読むか、小田切さんの感想を聞いてみたい気もします。
最後にもう一つ。
いや、「責任感じろ」って、わたしや海法くんに怒ってるらしいのはわかりますけど、「失敗してない」なんてことは言ってないですから。
ただ、「甘い」と言われるかもしれないけど、そんなに暗く突きつめて考えない方がいいと思います。
高橋良平さんによれば、日本におけるアメコミ輸入の目論見は戦後6回行われてことごとく潰えているわけだけど、逆に言えば失敗しても失敗しても、また次のアクションが続いてきたってことだし、アメリカ本国でのアメコミ出版だって、この10年ちょっとの大々的な後退のあとに、再興がまたあるかもしれないじゃないですか。
メディア展開はうまくまわってんだし。
それに、わたしなんかは見るのがイヤで、9.11以降、一時期アメコミから目を逸らしちゃったわけだけど、その部分についてしっかり特集した「アメコミ最前線」とか、小田切さんが良い仕事してるのは、見てる人はちゃんと見てると思いますよ。』# boxman 『> ITOKさん
べつにコメントを歓迎していないわけではなく、ウェブでの「議論」みたいなものを信じてないだけですので、なにか書きたいことがあれば書いてもらってかまいませんよ。見ればわかりますが、私は無内容な罵倒すら消しません(SPAMは消します)。情報提供ならむしろ積極的に歓迎します。
> 堺さん
私はべつに怒ってません。ただ、死にたくなっただけです(w こういうエントリは書くのにものすごく手間がかかるんで、田中先生のコメントも参照して気をつけてもらえると助かります。とりあえず「「序文」は読んでなかった」という言い訳は本文でナイバーグがこういうことを主張してないようにも読めてしまうんでやめましょうよ。
それと、アメリカではコミックスは現在スーパーヒーローコミックスも含めはっきり隆盛していますし、それはたぶん僕らが90年代にほとんど無視していたスモールプレスエキスポ組や日本マンガ/アニメの影響を受けたグループの活動と努力が遠因です。 現在私は「80~90年代のコミックスブーム自体が袋小路だった」という考え方を取っていますが、たぶんこれは日本のアメコミファンからはあまり歓迎されない見方だろうし、堺さんだって首肯しがたいんじゃないですか? ただ、僕としては堺さんに考えてもらいたいのはそこだけなんですね、「現実を見ましょうよ」っていう。』# 債鬼 『研究なんてのは、後世の誰か一人の役に立つだけでも上等なので、
そのまま死ぬまで続けてください。』# 猫男 『>見ればわかりますが、私は無内容な罵倒すら消しません
てめーが無内容な罵倒しか書いてないんだから当たり前ですって。。w』
-増田本関連- 箱男氏のブログの再録2 ― 2007/10/15 21:23
以下は旧箱男氏のブログのhttp://d.hatena.jp/boxman/20060618.html#p2を箱男氏の了承を得て再録したものである。
再録にあたり若干タグの編集を行っているが基本的にはそのまま掲載している。
■増田悦佐『日本型ヒーローが世界を救う!』(宝島社刊)
書店でパラパラ見た段階で「また、アメリカンコミックスに対する誤解に満ちた日本マンガ優位論の本か」とうんざりしてそのまま通り過ぎていたのだが、ひょんなことからまともに興味を持って読んでみることにした曰くつきの本。
とりあえず端的に感想だけをいえば「すごい本」ということになる。
なにがどう「すごい」かは曰くいいがたいのだが、個人的には「このひと(たぶん)本気だ」という部分に一番衝撃を受けた……なんというか、90年代に岡田斗司夫が「ネタだよ」といいながらやっていたような主張をこのひとはたぶん直球ど真ん中の本気で主張している。
実際に「トンデモ本」という批判が出てくるのもわかるくらいおかしい(笑える、間違っている両方の意味で)記述も山のようにあるのだが、とりあえず主張が完全に本気なのでまずその迫力に圧倒されてしまう。
いちおうアメリカンコミックス関連で個人的にもっとも気になったのは以下の記述
そして、比較的早い時代の、まだアメリカ自体が牧歌的なところを残していた時代に新聞連載が始まったスーパーマンだけは、ロイス・レーンというクラーク・ケントの小生意気な女性記者がサイドキックの役回りを演じている。
(「第1章 アメリカンコミックスはなぜつまらない?」、増田悦佐、『日本型ヒーローが世界を救う!』、宝島社刊、2006年、16ページ)
で、この記述からは著者が新聞のコミックストリップとコミックブックがまったく異なったメディアであることに気付いていないことがはっきりわかる。さらにそれ自体がアメリカではバカにされまくっている子供文化であるサタデーモーニングカートゥーンのコミカライズである『SCOOBY-DOO!』(DC Comics刊)について
この階層序列のはっきりしたパターンがいかにしぶとく生き延びているかは、連載開始の時期が比較的遅くて、アメリカン・コミックスの世界ではニューウェーブと言ってもよい『スクービー・ドゥー』のようなシリーズを見ても明瞭に読み取れる。
(「第1章 アメリカンコミックスはなぜつまらない?」、増田悦佐、『日本型ヒーローが世界を救う!』、宝島社刊、2006年、16ページ)
といっているのを見れば、大塚英志が「アメリカのマンガ・アニメをディズニーに代表させる」ことを批判し「アメリカのマンガ・アニメの世界になるべく広い網をかけなければ説得力が出てこない」という割りに(でも、ここの部分の大塚への批判自体は著者に同感)アメリカにおけるコミックス、カートゥーンの現状について著者がさほどあかるいわけでもなんでもないことも明白だ。
ごく一部の読者向けに改めて述べておくとここで話題になっていた「コミックスコード朝鮮戦争起源説」はその意味ではあまり問題ないんじゃないかと思う。ここでも何度か述べたことだが、現在のアメリカでのコミックス研究においてはコミックスコードの導入は50年代のアメリカにおいて全社会的に吹き荒れていたメディア規制の動きを反映したものと理解するのがほぼ常識的な解釈になってきており「朝鮮戦争」だって50年代の「そういう世相」をつくった要素のひとつなのだから、ワーサムひとりを戦犯扱いするよりよほど妥当だともいえる。
これに関して個人的におかしかったのはむしろ増田が「日本と違ってアメリカの出版社の経営者たちは、立派な知的エリートたちだ」(290ページ)といっている点。
「知的エリート」って、40、50年代のコミックブック出版者なんてあんなものは実際には半分ヤクザですよ(w
この時代のエピソードとして私が好きなのはチャールトンコミックスの創業者ふたりが詐欺かなにかでとっつかまっていれられていた留置場で出会って意気投合した、という伝説なのだが、スーパーマンの版元であるDCコミックスにしても、コミックブック草創期の世界を活写したジェラード・ジョーンズのすばらしいノンフィクション『MEN of TOMMORROW』(Basic Books刊)を読むと創業者のハリー・ドネンフェルドがその名声とは裏腹に(もしくは相応に)そうとういかがわしいところのあった人物であることがよくわかる。この辺はたぶん日本の赤本辺りと共通したものがあるのだろうが、増田の記述はその意味でツボに入って個人的に受けた(w
しかし、そんなことをいいだしたらこの本はまさに「おかしいこと」だらけなのだ。
たとえば
世間的にはロリコンと呼ぶ趣味を、マンガ・アニメ業界ではショウタロウを略してショタと呼ぶほど、広く浸透している幼児的魅力のシンボル概念になってしまったのだ。
(「第2章 日本のマンガ・アニメだけが本物の女性ヒーローを生み出した」、増田悦佐、『日本型ヒーローが世界を救う!』、宝島社刊、2006年、74ページ)
という記述などはいったいどういう伝聞経路で話を聞いてどういう誤解の仕方をすればこういう話になるのか自体が私には理解しがたい。
歌謡曲やジャズ、人類学など自分自身があかるくないジャンルについてはよくわからないが、べつにアメリカンコミックスに限らず日本のアニメ、マンガについてもこの本はこの種の誤解や牽強付会のオンパレードであり、比喩的に言及される大リーグのベーブ・ルースについての記述なども牽強付会としか思えないことから、わからないものについても著者の記述を額面どおり受け取ることはできない。動脈硬化した階級社会としての欧米社会、文化とその社会をコントロールする「知的エリート」たちへの批判もあまりにも(それこそコミックブック的な勧善懲悪の構造へと)戯画化されすぎていて素直には同意できない感じである。
にもかかわらず、この本の記述にはところどころ妙に鋭い部分がある。
私が感心したのは、先にも述べたように大塚英志の批判にワーナーの『ルーニートゥーンズ』辺りを持ってくる部分だが、ディズニーに対してハンナバーバラなどのそれこそアメリカの知的な層からバカにされているサタデーモーニングカートゥーンを持ってくるのはじつに正しい選択である(もっとも先に述べたように増田自身はその辺の構図がよくわかってないような気もする)。
欧米におけるポルノコミックスの存在を指摘する件も割りと感心したが、挙げているものはフランスのコミックスでがっかりした。アメリカのポルノコミックスは大概もっと下品でへたくそである(w そのかわり作家も作品もまったく増田がいうような厚遇などされていない。あくまでもポルノショップでしか買えない地下出版物であり、増田が挙げている例はそれこそ「おフランスのものだからアメリカの知的エリートがありがたがって持ち上げている」例に過ぎない。
しかし、そのいっぽうで日本マンガがアメリカでいちばんはじめにもっとも違和感なく受け入れられた市場はおそらくポルノコミックス市場であり、じつはアメリカで女性作家が女性として女性のためだけに描くコミックスがはじめて登場したのもポルノコミックスなのではないかと個人的には考えている(アメリカ社会での性的な棲み分けの問題から考えてレズビアンコミックスは女性作家による女性読者のためのものとしか考えられないため。ただ、この辺に関しては本当に資料がまったくない)。その点では増田の指摘は割りと鋭いと思う。
それに読んでみて私はこのひとがアメリカンコミックスに対して抱いている反感はじつは概ね理解できるし、ある意味正しいとも思ってしまったのだ。
電話の向こうの声は英語だった。アメリカ本社から自己紹介もそこそこに、切り口上でこんなことを言ってきたのだ。
「アメリカン・コミックスは世界のマンガ市場で30%(ひょっとしたら40%だったかもしれないし、50%だったかもしれない)のシェアをとっているのに、日本市場には全然浸透できていないのよ。非関税障壁があるに違いないから、一体どこにどういう圧力をかければこの障壁をぶち破って、日本中の子供たちが自由にアメリカンコミックスを読めるようになるか、教えてちょうだい」
いかにもアメリカのキャリアウーマンという高飛車な話しかただ。
「ちょっと、待ってくださいよ。いきなりそんなこと言われても……」
「うちはスーパーヒーローものの最大手、マーヴェルコミックス(これも、実際にはDCコミックスと言っていたのかもしれない。とにかく大昔の話だから、細部があいまいなのは勘弁していただきたい)の版権を抑えているんだから、そうすれば大もうけできるはずよ」と言うのだ。
(「はじめに」、増田悦佐、『日本型ヒーローが世界を救う!』、宝島社刊、2006年、4ページ)
いや、大もうけなんてできませんて(w
増田はこのキャリアウーマンに対して日本マンガのすばらしさを説き、当然まったく話が通じないわけだが、これは少しだけマーヴルやDCの日本での代理店活動について見聞きしたことがある私としては「まあ、あるだろうな、こういうことは」と思わざるを得ないエピソードである。
つまり、単に持ってくれば売れると思っているのだ、アメリカ人は。
そりゃ、増田ならずとも腹は立つだろう。気持ちはよくわかる。
この本はその怒りが北米市場での日本マンガの成功によって噴出したものなのだろうし、「ニートは悪くない」とか「ワンフェスやコミケでは版権を自由化すべきだ」といった暴論といわれかねない主張までする著者の主張の一貫性、本気さはすごいとも思うのだが、私は逆に現在の北米での日本マンガの成功は増田が説くような「日本マンガのコンテンツとしての優位性によるもの」という考え方を否定する事例だと思っている。
私自身、以前「マンガブーム」といういいかたで紹介したし、たぶん今後ますます北米でのマンガ出版に関しては「ブーム」的な報道がなされていくだろうが、私は現在の北米市場におけるマンガはとっくにブームの域を超えたと思っているし、そもそも市場を確保するに至った経緯を見るともともと一過性の流行などではなかったのだと考えている。
つまり、日本の報道ではほとんど意識されないが、Vizは80年代からアメリカでマンガを売っていたのだ。ならば
「日本のマンガが人類の革新を象徴するほどすばらしいものだったのなら、なぜ80年代にアメリカにいって即売れなかったのか?」
というのはもっと考えられてもいい疑問だろう。
要するに北米市場での日本マンガの成功は20年かかってさまざまな試行錯誤を経たうえで市場を築いたという「継続は力なり」の実例であり、「日本産コンテンツのソフトパワー」がどうしたとかいう話は基本的にオカルトだ、というのが私の考えである。だから、増田がこの本で主張している階級社会にとらわれない平たい市場、規制のない自由なオタク市場のすばらしさを説きたいなら主張の矛先が間違っているのではないかという気がする。
むしろ増田はこういうべきではないのか
「アメリカンコミックスを日本で売りたいならちゃんと売れよアメリカ人」
と。
以下は上記のエントリのコメント欄
# 漫棚通信 『お疲れ様です。箱男さんやその周辺のかたがたがなんとか日本に根付かせようとされているアメコミが、いつまでたっても日本では継続的に受け入れられないのは、それを享受しようと待ち構えてるわたしのような読者には残念でしようがありません。個々にはすばらしい作品が存在するのに。一時期のあのフィギュアブームって何だったんでしょ(今もブーム続いてます?)。やっぱアメリカ側のアメコミの売り方が問題だったのでしょうか。』
# tamaki 『今もアメコミヒーローのフィギュアブームが続いているのかは分からないけれども、Quantを数年間読み続けた感想としては細く長くという感じかな。』
# ceena 『『英語で!アニメ・マンガ』ブログのceenaです。わたしのブログに言及してくださって、ありがとうございます。とても励みになります。』
# boxman 『> 漫棚さん
> 箱男さんやその周辺のかたがた
こういういいかたをするなら、たぶん私のほうが「周辺のひと」ということになると思います。どこにいっても「周辺」にしかいない。
でもまあ、そういう人間でも見聞きしたことはありますから、『Comic Wars』(Dan Raviv)を読んで90年代マーヴルの内情を知って当時の日本への対応にも「ハカがいった」部分はあったりします。ただ、このエントリでいってるのは、そういう内情的な話ではなく、マーヴルやDCはVizみたいに20年間継続して現地販社を設けてモノを売り続けるなんていう愚直のきわみみたいな企業努力はしてないよね、という以上でも以下でもありません。フィギュアブームに関してはアメリカンコミックスと関係はあるけど、また別な話でしょう。
> ceenaさん
ceenaさんのやられていることは私に限らず誰が見てもすばらしいと感じると思います。ここはもうすぐなくなりますが、私自身は応援してますのでこれからもがんばってください。』# 韓リフ 『おお、なんといいエントリーだ。マジに、増田本関係で一番参考になりました。やはり達人から生暖かくみると、生殺しになる部分と孵化する部分がはっきりしていいですね。勉強になりました、ありがとうございます。
Comic Warsはさっき、Frank ChoのShannaと一緒に届きました。いま原稿を大量に抱えてますので時間がとれませんが読んでまた感想はブログの方で書きますのでよろしくお願いいたします。
では』# boxman 『> 韓リフさん
喜んでいただけたようで幸いです。私としては「日本マンガ優位論」の本は完全に自分の関心の外にあったものなので、そこにそれとは別な意義を見出す、というそちらでの指摘は本当に目から鱗だったわけです。個人的にコミケやワンフェスについて論じた部分などは実際感動的ですらありました(残念ながら実際のコミケやワンフェスが彼がいうほど理想的なものとは思えないのも確かなのですが)。
ただ、増田氏が主張する自由競争の面でいえば現在のアメリカではマンガブームによってベンチャー的なスタンスで企業としてかっちりした組織をつくりあげた会社がペンギンやランダムハウス、DCなどの大出版社と組んで業績を伸ばしているいっぽう、古くから翻訳出版をおこなってきたファンパブリッシャー的な会社がどんどん淘汰されている現実もあり、今後はこうした実際の事例にも基づいた議論がおこなわれることを希望したいと思います。』
-増田本関連- 箱男氏のブログの再録3 ― 2007/10/15 21:25
以下は旧箱男氏のブログの“http://d.hatena.jp/boxman/20060626.html”を箱男氏の了承を得て再録したものである。
再録にあたり若干タグの編集を行っているが基本的にはそのまま掲載している。
■スーパーヒーローコミックス=ロボットアニメ説
どうやらこことかここから見にきているひとがいるようだが、見にきたひとからどういう期待をされているのかわからないけど、実際問題これとかに私が異論があるかというとべつにない……というか、この発言でいわれていること自体じつはそれほど目新しいものだとも思えないのだが。たとえば何度か言及しているこれとか、あるいはずいぶん前に書いたこれとかね。それにぶっちゃけid:ceenaさんなんかはマット・パスツの『Comic Book Culture: Fanboys and True Believers』(University Press of Mississippi刊)読んでる訳だから特にファンやコミックショップの件なんかあれに書いてあることがいわれてるだけで目新しくもなんともないはずなんだけど。
だいたい私はスーパーヒーローコミックスをストレートに日本のマンガと比較するのは無理があるんじゃないかと思っていて、けっこう昔から「スーパーヒーローコミックス=ロボットアニメ説」というのを唱えている。
これはもともとは90年代にほぼピークに達したXメンに代表されるクロスオーバー型の作品がつくり方的にマンガよりもむしろ日本のテレビアニメに近いやり方でつくられていることから発想したものなんだけど、その後スーパーマンが1939年の時点でキャラクターマーチャンダイズ展開をしていたことを知ってスーパーヒーローコミックス自体が「自律した物語」というよりもスーパーヒーローというキャラクターマーチャンダイズにおける「物語担当メディア」なのだという結論に達し、以後カントクいうところの「ただオモチャのロボットを売るためにつくられた」ものとしてのロボットアニメとパラレルに考えたほうが日本人にとって理解しやすいものじゃないかと考えている。
……まあ、ンなこといってもなんのことだかさっぱりわからないと思うんで、めんどくさいけど少し説明するが、アメリカンコミックスと日本マンガの違いとしてよくいわれるライターとアーティストの「分業制」というのはじつは同一出版社のすべてのキャラクターが同じ世界観を共有しているスーパーヒーローコミックスの場合、本当はもう少し大きなレベルで括るべきもので、特にXメンやバットマン、スーパーマンなどの複数のタイトル(つまり『アンキャニィXメン』とか『ニューXメン』とかいった個々のコミックブック)が常に関連性を持ちながらまとまったストーリーを語っていくようなものの場合、実際にその全体のストーリーを主導的に取りまとめていくのはそのグループ全体を統括するチーフエディターであり、これがテレビアニメにおけるシリーズ構成、監督の役割を果たしている。つまり、この場合、個々のタイトルのライターの役割は日本マンガにおける「原作」といったニュアンスからは程遠く、むしろテレビアニメ各話の脚本家の位置づけに近い(私はスーパーヒーローコミックスのライターの仕事に対し「原作」の語を使わず、「脚本」としか書かないことにしているのだが、それはこういうニュアンスの違いがあるためだ)。
たとえば現在ユニバース全体で一大クロスオーバーを展開中のDCコミックスの場合、このグループのレベルをユニバースすべて(つまり自社で出しているスーパーヒーローコミックスすべて)に拡大して展開しているわけで、わかりやすくいえば総監督(つまりトミノ)がチーフエディタのダン・ディディオで彼の構想のもと具体的に各話のストーリーを脚本化していくのがグレッグ・ルッカやゲイル・シモーヌやジュド・ウィニックといった各タイトルの担当ライター、これに対して作画監督にあたるのが各タイトルの担当アーティストということになる(「演出」についてはライターとアーティストのコンビによってかなりやり方が異なる。『Writers of Comics Script Writing』(Titan Books刊)を見るとグラント・モリソンなどはほぼ完成したネームレベルのサムネルを作成してアーティストに渡しており、ルッカは映画の脚本レベルのもの、カート・ビュシークは脚本段階でコマ割りまでは指定しているようだ。しかし、フランク・ミラーのインタビューを読むと、それも組むアーティストが違えばその辺の呼吸も異なってくるようで要はコンビで仕事をした経験値によって違いが出てくるものらしい)。
このスーパーヒーローコミックスのやり方をたとえば同じライター/アーティストの分業制だからといって梶原一騎、ちばてつやの『あしたのジョー』なんかとストレートに比較するのはどう考えても無理がある。日本のもので比較するなら個人的には『ガンダムエース』をお勧めする(冗談ではなくまじめに)。
つまり、まずこのメディアはつくり方そのものが日本のマンガよりも日本のテレビアニメに似ているのである。
そして、なぜこのメディアがこのような性格を持つに至ったかといえば、おそらくそれはシーゲルとシャスターがナショナルコミックス(というかハリー・ドネンフェルドとジャック・リーボウィッツ)にたった130ドルでスーパーマンの版権を売り渡してしまったからなのだが、なんで作者が版権を売り渡したらメディア自体の性格がそんな風に規定されてしまったのかといえば、スーパーヒーローコミックスがその最初期の段階でこのふたりの商売人の手で展開されることになったことによって「作家の作品」ではなく結果的に「スーパーマンというキャラクターを使った多角的マーチャンダイジングメディア」になったからだ。
チップ・キッドの装丁がとても美しいレス・ダニエルズの『SUPERMAN: THE COMPLETE HISTORY』(Chronicle Books刊)の表現を借りればそのとき「スーパーマンの新しいイメージは増殖し続け、すぐに量的な面だけでシーゲルとシャスターがコントロールできるレベルを超えてしまった」ということになる。
コミックブックの王者としての存在感をしっかりと確立したスーパーマンは他の分野へとその影響力を広げていった。この点で産業の発展に重要な役割を果たしたのはDCの子会社、スーパーマン・インクを任された元パルプ作家のロバート・マックスウェルだった。マックスウェルはスーパーマンの名前とイメージを使ったさまざまな商品へのライセンスビジネスをはじめた。そのうちのいくつかはスーパーマンの知名度を利用したオモチャの類であり、他のものはただすでにあるモノにスーパーマンのロゴや絵柄をあしらったキャラクター商品だった。
最初のスーパーマングッズが生産、出荷されはじめたのは1939年だった。コミックスファン向けにはファンクラブ「スーパーメン・オブ・アメリカ」が設立され、会員が募集された。会員たち(おそらく当時数十万はいたと思われる)は懸賞に応募し、スーパーマンリングとスウェットシャツを手に入れた。1940年にはスーパーマン商品の洪水は社会現象化した。パズルやお絵かきセット、紙人形、ゲーム、グリーティングカード、塗り絵、キャンディと風船ガム(トレーディングカードつき)、プラスチック以前のこの時期、1940年のスーパーマンフィギュアは木か金属でつくられていた。たぶんこの年につくられたもっとも印象的なアイテムはデイジー製作所製の「オフィシャル・スーパーマン・クリプト・レイガン」だろう。このピストルは内蔵されたフィルムのコミックストリップの画像を近くの壁に映写するもので、あの過ぎ去った日々のものがみなそうだったようにバッテリー内蔵式だった。
子供たちはスーパーマンのイラストのついた遊び着や靴下、シャツ、モカシン、それに下着を着て、スーパーマン財布にお金を入れて、晩御飯にスーパーマンパンを食べた。ライセンスビジネスは二度、三度おいしい宝の山であることがわかってきた、なぜなら放送局や映画制作者たちがこの「鋼鉄の男」を取り上げる度に関連商品もまた急増したからだ。それは何十年ものちにメディアの専門家たちが「シナジー効果」と呼ぶことになるもののはじまりだった。
(「EXPLOSION」、Les Daniels、『SUPERMAN: THE COMPLETE HISTORY』、Chronicle Books刊、1998年、47~50ページ)
一般的には「キャラクターマーチャンダイズ」という考え方はルーカスの『スターウォーズ』にはじまるとされることが多いが、この記述を見る限りではこの1939年から1940年のDC(ナショナル)コミックスのスーパーマンのライセンス展開でその手法はほぼ完成していることがわかる。
40年代、50年代のスーパーマンのラジオドラマや映画、テレビドラマへの展開もDCが「仕掛けた」ものであり、このあまりにも巨大な成功が以後の「スーパーヒーローコミックスというメディア」の性格をほぼ決定付けてしまっている。
つまり、スーパーヒーローコミックスとは本質的に「子供にオモチャやキャラクターグッズを売るためのメディア」なのであり「だからバカにされている」のである。
私がスーパーヒーローコミックス最初期におけるこの現象を知って「スーパーヒーローコミックス=ロボットアニメ説」にほぼ確信を持ったのもこの点による。
そう考えれば60年代、70年代、80年代とスーパーヒーローコミックスの内容が高度化し、読者が高年齢化するにつれ、ファンサイドから盛んに「スーパーヒーローコミックスは単なる子供向けのものじゃない」という主張が出てくるのも、それが「ガンダムSF論争」のようなものだと思えば日本のちょっと年齢のいったアニメ、マンガファンにとってはほぼ納得できるものになるはずなのだ。『ダークナイト』と『ウォッチメン』をロボットアニメにおける『ガンダム』だと仮定すれば、「グリム&グリッティ」の流行もガンダム以降の「リアルロボットアニメ」ブームに対応させればほぼ問題がクリアに見える。
いうまでもないことだが、私は「日本マンガと比較してスーパーヒーローコミックスはくだらない」という意見には与しない。それは「ロボットアニメはマンガと比較してくだらない」といっているのと大して変わらない行為だからだ。だが、同時に私は「スーパーヒーローコミックスは子供向けを超えたすぐれたエンターテインメント」だとも主張しない。いまの私は「べつにガンダムがSFじゃなくてもまったくかまわないじゃないか」としか思っていないのとそれはほぼ同じことだ。
スーパーヒーローコミックスは要するに『スーパーロボット大戦』であり、『ガンダム』であり、『マジンガーZ』であり、『鉄人28号』であり、『エヴァンゲリオン』であり、『ガオガイガー』であり、そういうものとしておもしろいのであって、それでなにか問題あるんだろうか。
私にとってはなにもない。
以下は上記のエントリのコメント欄
# JKY 『スーパーマンってのらくろと同い年なんですよね。
なんつーか本中華。』# 韓リフ 『見にきたひとからどういう期待をされているのかわからないけど>
ネタじゃね?』# しゅん 『つまり、90年代後半以降の単価の上昇とTPBやスピンオフの増加は、日本のアニメが
おもちゃを売りつけることから、DVDなどその商品自体で利益を得るシステムに移行
していることとリンクしているってわけですか?』# tanakahidetomi 『 いうまでもないことだが、私は「日本マンガと比較してスーパーヒーローコミックスはくだらない」という意見には与しない。それは「ロボットアニメはマンガと比較してくだらない」といっているのと大して変わらない行為だからだ。だが、同時に私は「スーパーヒーローコミックスは子供向けを超えたすぐれたエンターテインメント」だとも主張しない。いまの私は「べつにガンダムがSFじゃなくてもまったくかまわないじゃないか」としか思っていないのとそれはほぼ同じことだ。>
まあ、こう考えるのが普通かもしれないけれども、それは他方でスーパーヒーローコミックスと日本のマンガを比較する共通の分析的枠組みへの関心を閉ざしてしまいかもしれませんね。例えばある国独自と思える商業文化の一ジャンルが他の国のまったく無縁とも思える一ジャンルと実は市場の構造が同じで、そこからそのジャンルの表現形態やファン層の嗜好まで規定されているとしたら、やはり両者を比較することは無駄なことじゃないでしょうね。』# boxman 『> しゅんさん
> 90年代後半以降の単価の上昇とTPBやスピンオフの増加は、日本のアニメがおもちゃを売りつけることから、DVDなどその商品自体で利益を得るシステムに移行していることとリンクしている
単価の上昇はアメリカのコミック出版社のダイレクトマーケット依存のあらわれである部分が大きいですが、TPB出版の増加に関してはしゅんさんの御指摘は比喩としてはけっこう妥当だと思いますよ。日本のマンガ自体が雑誌から単行本中心に移行したのは70年代のことでいまのアメリカのコミックス産業はこの時期の日本マンガに近いんだと思っています。なんにせよ私がいってるのは「こう考えると理解しやすい」という話であって「同じものだ」といっているわけではありません。
> 韓リフさん
> ネタじゃね?
だから「スーパーヒーローコミックス=ロボットアニメ説」ってのはこりゃ「ネタ」ですよね
>例えばある国独自と思える商業文化の一ジャンルが他の国のまったく無縁とも思える一ジャンルと実は市場の構造が同じで、そこからそのジャンルの表現形態やファン層の嗜好まで規定されているとしたら、やはり両者を比較することは無駄なことじゃない
ええ、私はその両者を比較することが無駄だとはいってないわけです。むしろ比較すべきだといっている。ただ「日本のマンガ」という大きな括りと比較するのならばそれと対応するのは「スーパーヒーローコミックス」ではなく「アメリカンコミックス」であるべきだと思う、ということなんです。私が問題を感じているのは擁護するにしろ批判するにしろ「アメリカンコミックス」という語が日本で使われる際にそのメディアなり文化としての全体像がどのようなものかが検討されずに「自分の知っている断片的な情報」だけが語られていることです。それはあるときはスーパーヒーローであり、あるときはコミックストリップであり、あるときはアンダーグラウンドコミックスであるわけですが、それらをひとまとまりにして「アメリカンコミックス」とはこういうものだ、ということがでは誰かいえているでしょうか? その意味で「アメリカのマンガ・アニメの世界になるべく広い網をかけなければ説得力が出てこない」という増田氏の主張はしごくもっともなのです。そしていまの日本にアメリカでいう「comics」という言葉のニュアンスを日本人として「マンガ」というときほどはっきりつかまえている人間はほとんどいないだろうと思います。私の考えではそういう感覚があるのは小野耕生さんと片岡義男さんくらいなもので、あとは私を含めよくわかっていない。で、私はまずこの「よくわかっていない」ということからはじめて「こう考えるとわかりやすい」ってのを積み重ねていくしかないだろうと思ってるんですが、この「よくわかっていない」こと自体がうまくわかってもらえないんですよ。やればやるほど皮肉なことに「詳しい」とかって話になりますしね。』# tanakahidetomi 『ただ「日本のマンガ」という大きな括りと比較するのならばそれと対応するのは「スーパーヒーローコミックス」ではなく「アメリカンコミックス」であるべきだと思う、ということなんです>
僕にはこの引用の意味が実はよくわかりませんが、増田さんの史観だと経済学の基本的競争モデルみたいなのがある。それでアメリカンコミック市場と日本マンガ市場を比較して、この競争モデルからの偏差をはかっていく、と思うんですよね。その偏差が象徴的に「スーパーヒーローコミックス」に表れているならば(あるいは別な視点ですがこの分野の偏差と日本マンガの偏差の対比が興味深ければ)、これと「日本のマンガ」を比較しても別にかまわないように思えます。
<「comics」という言葉のニュアンスを日本人として「マンガ」というときほどはっきりつかまえている>
ということも僕はこの種の嗜好あるいは趣味さえも市場の特性によって生み出されるという形で考えると、上に書いた基本的競争モデルからの偏差として、異なる次元のものを比較することも可能になるように思えるのです。
例えば大塚史観を増田さんは批判してますが、これも基本的競争モデルというデフォルトをもってみてる人(増田)、と各国ないし各ジャンルが独特のモデルを持っていて容易に比較を許さない人8大塚)との対立なんだと思うのですよ。』# boxman 『> 田中先生
> この種の嗜好あるいは趣味
非常に説明するのがめんどくさいのですが、私の感覚ではこの部分を誤解されていると思います。
私が常に困っているのは「スーパーヒーローコミックス」とか「アンダーグラウンドコミックス」とか「コミックストリップ」といったものが単なる「嗜好の差」であるとは必ずしもいえない点です。
先のエントリでも書きましたが、実際のところ私が増田氏の本でもっとも問題だと思っているのは、増田さんがコミックブックをコミックストリップとほぼ同一のメディアだと捉え、スーパーヒーローコミックスに代表されるコミックブックへの批判のみをおこなってコミックストリップの存在自体をほぼ無視している点で、それではコミックストリップがコミックブックとはほぼ無関係に延々とそれこそ一般書店を含めた主流市場で売れてきた理由がまったくわからないんですよ。
つまり、これらは必ずしも同一の市場で競争してきたわけではない。社会的に隠蔽されてきたポルノコミックスなんかは特にそうですが、アメリカのコミックスの最大の特徴はおそらくこの複数の市場がバラバラに存在しているのに一般的にはなんとなくひとつのモノとして語られてしまっている、という点にあると思います。私の感覚ではそのなんとなくひとつのものとして語られている「アメリカンコミックス」というものが鵺のように捉えがたくわかりにくい。
私のつたない理解では、増田氏の批判は知的エリートによって規制され階層化した市場構造への批判だと思うのですが、このアメリカのコミックス市場の特徴はまさにそうした階層化した市場の格好の実例ではないかとも思います。
特にコード成立以前にまったく理由もわからず起こっているコミックストリップとコミックブックの分裂のほうがおそらくは「知的エリート」の問題からいえば重要であって、その意味では私なんかからすると増田氏はむしろガキ向けの娯楽であるコミックブックを「日本マンガ」的なものとして擁護して、新聞のコミックストリップや『ニューヨーカー』などの高級誌に掲載されてきたマガジンストリップを「知的エリート」のためのものとして批判してくれたほうが話としてはわかりやすい。そして、そうした批判がなされたうえで、スーパーヒーローコミックスなんかの限界が階層構造を持たない日本市場との比較で指摘されるのならばこれは非常にすぐれた論考になるだろうと思うのです。
私の考えではいまアメリカでは書店市場にコミックスの主流市場が統合されつつあることで「はじめて」割りと平たい「コミックス/グラフィックノベル」という括りで日本マンガを含めた「マンガ」全般の自由競争市場が現在進行形で出来上がりつつある(しかし、たとえばポルノコミックスやクリスチャンコミックスなど依然としてそこからスポイルされ続けるだろうものもある)ところだということになるのですが、それは逆にいうと市場がそれまでバラバラだったということで、これは個人としての「嗜好」や「趣味」でいっているわけではないのです。
単に嗜好の問題だけからいえばこのエントリでも書いているように「オレは酔狂なのでスーパーヒーローコミックスを永遠に愛するぜ、以上、終わり」なんで、少なくとも私はその点を主張しようとは思わないんですね。オレ、読者としてはそうとう趣味悪いですし。』# tanakahidetomi 『boxmanさん、各消費主体の嗜好ごとに市場が差別化されるってのは別に経済学では不思議でもなんでもないんですよ。それらの市場が渾然一体となって「アメコミ市場」となっててもです。ブラックマーケットもこの中に含めてかまいません。経済学というのは基本的競争モデルというデフォルトがあってそこからすべてを見るのが一般的でして、boxmanさんのいう階層構造をもつ市場、もたない市場というのもすべてこの基本的競争モデルという観点から評価するわけです。いいかえるとあらゆる市場がこの共通のモデルから評価可能と考えるわけですから、事実上の質的な問題は存在しない、という分析的な見地にたっているわけです。嗜好の問題も「おれこっちのほうがすきだぜ終わり」でもいっこうにかまわなく、そのおわりだぜ行為の選択サンプルをもとに、boxman的嗜好をあぶりだすのが経済学者の嗜好となります。ここが経済学者が嫌われるところでして、趣味とか嗜好に独自の意義を見出すよりもあくまで観測された選択の中で制御するわけです。それでも最近はかなり心理学的にはなりましたが、ベースラインは基本的競争モデルとそれによって形成される観測された嗜好・趣味のみですね。ですので誤解しているというよりも増田理論のベースはそういった観点ですし、この限定された分析手法勝負しているといいたいわけなのです。ところがこの限定が、boxmanさんでは「終わり」な議論をほりさげて、一見異なるものの中に基本的競争モデルから評価できる構造?を見出すことができるので、またまた経済学はある種の人からは「おれのこのみでおわりなのになにやってんだよ」的批判の対象にもなるのです。繰り返しますと、別段、なにとなにを比較する上での歯止めなどいっさいなく、「終わり」ということもこの学問にはないですね。ちなみにねずみのとるにたりない行為とスーパーヒーローコミックスが好きな人の嗜好を比較することもべつにできます。比較してその観点から後者の最適性を評価して批判することもですね。』
# JKY 『不毛な…』
# わるたあ 『「例の本」市場には結構悪影響を与えているようですね。
日本万歳を叫ぶにやぶさかでない出版社などはあると思いますが、
よりによってビジネス関係でも絶賛されるだなんて・・・
これを転載する気もおきませんので、これが意図せずしてあがった
2chのスレッドのみリンクします。
http://anime.2ch.net/test/read.cgi/asaloon/1116336668/l50
ここの325から335のあたりです。
自己愛的な愛国主義に漫画が使われる現状に寒気がします。
漫画もアニメも現場を見ることのない石原あたりの手合いが漫画をとことんだめにしていく気がしますから。アニメなんかモロです。』# reds_akaki 『具体的に名前やurlを挙げてください>わるたあ様
処で、『コミックファウスト』の太田克史による成田兵衛、茨木政彦インタビューは読みましたか?
「僕は、キャラクターとしては麻生大臣みたいな人、好きなんですけどね(笑)」とは、至言です
tanakahidetomi様 スーパーヒーローコミックとロボットアニメとの比較は、内田樹とかもやっている云わばお約束なのですが』# tanakahidetomi 『ちょっと本業が忙しくてレス(しなくてもいいかもしれないれども 笑)遅れてすみません。
>JKYさん。それはあなたが合理的推論を徹底して考えたことがないからです。
>reds akaiさん。そうですか、定番解釈なんですね。定説は丁寧に扱わないといけませんね。でもそれだけでよし、とする自閉的な態度にboxmanさんのは読めちゃんですよ。違ったら須磨祖。』# 松山 『>tanakahidetomiさん
横レス失礼します。お久しぶりですね、田中さん。
JKYさんが「不毛」と言ったのはあなた自身に人の意見を聞く気が
まるでなくて、頭ごなしに否定して持論を押し付ける事しか頭になく建設的な議論をする気がないからだと思いますよ。私には田中さんの姿勢の方が自閉的に見えます。
まあ、私や堺さん、海法さん、そして今回の箱男さんとのやり取りを見ても田中さんは人と意見を交換しあうといった他者とコミニケーションをする上での一般的な常識が欠落しているようなので(それが経済学者特有の気質か田中さん個人の気質なのかは分かりませんが)気をつけたほうがいいですよ。特にここは御自分のHPではなく他所様のHPなんですから。
さらに言えば一般の掲示板で2ch用語を使いまくるのもよくないですね。田中さんが2ちゃんねらーなのは別にかまいませんが、そういった事と無縁の人から見たらただ不快なだけです。』# tamaki 『まぁ、長文コメントは御自分のブログでやってくださいってことで。』
最近のコメント